「マリー・アントワネットとフランス」8 「結婚の成就」

 ヨーゼフ2世がヴェルサイユを訪れ、マリー・アントワネットとルイ16世に夫婦生活に説教してから2か月半後の1777年8月18日、ついに「大事」がなされた(午前10時から11時15分までの間と詳細な時間までわかっている)。8月30日付けの母親宛のアントワネットの手紙にこう記されている。

「今の私は生まれてからこの方もっとも幸福な時を過ごしております。1週間前に私の結婚は完全なものになりました。・・・まだ身ごもったとはおもいませんが、少なくとも、これでいつ身ごもっても不思議はないという希望は持てるようになりました。・・・」

 マリア・テレジアにとってどれほど大きな喜びだったことか。しかし、安心はできない。まだ妊娠したわけではないし、国王夫妻が同じ部屋で夜を過ごす状態が中断したからだ。マリア・テレジアは手紙で娘を諭す。

「別室で休むのは論外ですし、夜の娯楽、特に賭け事はいけません。・・・もしあなたが賭け事を続けていれば、その責めや支払いはすべて国王陛下と国家が負うのです。そして元凶はあなたということになります。私はこのような重要な点について、これはあなたの幸せを、いいえそれ以上にあなたの名誉を左右することですから、黙っているわけにはいきません。」(1777年8月31日付)

 アントワネットはこう言い訳をする。

「陛下は一緒にお休みになるのがお好きではありません。私は、完全に別の部屋で休むのはおやめくださるようお願いしています。それでときどきは私のところで夜をお過ごしになられます。でも、もっと頻繁にとお願いして陛下を苦しめてはならないと思っております。」(1777年9月10日付)

 だが、これは嘘。メルシーが10月17日付けで、次のように報告している。

「王妃様が『陛下はいっしょにお休みになるのがお好きではありません』とお書きになっておられるのは口実です。陛下は私にはっきりとおっしゃいました、一度たりと一緒に休むのを嫌だと申したことはない、いっしょに休むのが中断されたのは、もっぱら王妃様が夜を徹して賭け事をするためである、と。陛下は早寝早起きの方です。王妃様がいつお戻りになるのか、陛下はまったくご存知なく、また王妃様に窮屈な思いをさせることも、お望みではありません。これが別室でお休みになっている本当の理由で・・・」

 それでもマリア・テレジアは辛抱強く娘を諭し続ける。すぐれた教育者とは相手をよく知った上で、忍耐強く相手の状況に応じて説得を試みる存在だと教えられる。1777年10月3日付手紙。

「陛下はごいっしょに休むのがお好きでないと伺って、残念に思っています。私はこの点がたいそう大事なところだと思います。それも子供を持つためというより、さらに心を通わせて結ばれ、お互いにより自然に打ち解けるためです。寝室をともにするということは、誰にも邪魔されることなく、毎日いっしょに数時間を過ごすことなのですから。陛下を苦しめてはならないというのは、あなたのおっしゃる通りです。がしかし、あなたはこの状態をつねに心に留めておき、次第しだいに物事を望ましい状態に戻していくべきです。これを実現するためには、よろしいですか、自分のわがままを抑え、陛下のお望みの時間に休み、起きるときも同じようにしなければなりません。

 私がこれを望むのは二重の意味で重要だからです。早寝早起きをする様になれば、徹夜やあの忌まわしい賭け事から遠ざかることができるのです。・・・母国を離れて暮らすあなたにとって、このように賭け事にうつつをぬかすことがどれほどの不都合と障害をもたらすことになるか、これについてはいくたび繰り返しても十分とは思えません。あなたを心から愛していればこそ、私は苦しい思いをしています。」

 マリア・テレジアの努力は報われる。翌1778年12月19日、マリー・アントワネットは長女マリー・テレーズを出産。王子ではなかったがそれは問題ではない。出産能力が証明されたからだ。

ルイ・ジョセフ・モーリス「マリア・テレジアと息子たち」1775年 シェーンブルン宮殿

ヴィジェ・ル・ブラン「本を手にしたマリー・アントワネット」1778年 個人蔵

ヴィジェ・ル・ブラン「王妃マリー・アントワネット」1778年 ウィーン美術史美術館

アレクサンドル・フランソワ・カミナード「マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス」ルーヴル美術館 

 ルイ16世の弟シャルル10世の長男であるルイ・アントワーヌ王太子の妃となった。ルイ16世とマリー・アントワネットの子女の中で唯一天寿を全うした。

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