「マリー・アントワネットとフランス」7 ルイ15世の死

 ついにマリー・アントワネットは折れる。王の寵姫デュ・バリー夫人を初めてみた時から1年半後、アントワネットは新年の大祝賀会の席で、相手と目を合わせぬまま、短くこう言った。

「今日はヴェルサイユも大変な賑わいですこと」

 この一言で一件落着。ただし、アントワネットは「一度だけなら」と妥協しただけだったので、以後、デュ・バリー夫人に声をかけることは決してなかった。この「一言騒動」、ささいな女の喧嘩に見えて長く悪影響を及ぼす重大事だった。

ヴェルサイユの宮廷は、絢爛華麗な宮廷として知られていたが、その一方「世界でもっとも意地の悪い宮廷のひとつ」と言われていた。他人の揚げ足を取ったり、失敗をあざ笑ったり、悪口を言ったり、根も葉もない噂を流したりする人たちが宮廷内にあふれていた。後に巷に出回るマリー・アントワネット中傷記事の出所の多くも宮廷と言われる。ヴェルサイユの住人にしてみれば、かつての敵国の少女から公式寵姫制度を否定されて気分のよかろうはずがない

 実は、この公式寵姫というシステムは王妃にとって悪い面ばかりではなかった。異国から嫁いできた王妃は、寵姫によって守られる面が多々ある。跡継ぎを産むことが王妃の仕事なら、寵姫は王を心身両面で慰めるのが任務だ。ほとんどの場合、王妃は身分こそ高いが外見は劣り、宮廷を華やかに彩るのは寵姫だった。美しくあることが仕事だから身を飾るには大枚が必要で、寵姫の散財は非難の的になる。またたいていの寵姫は自分の身内を役職に就けたかったので、そこでも反感を買う。要するに憎まれ役を一手に引き受け、その分、王妃は安全圏にいられたのだ。マリー・アントワネットの不運は、夫が女性に関心が薄く、ただのひとりの愛人も持たなかったこと。そのため、アントワネットが寵姫の役割を兼ね、矢面に立たされるようになってしまうのだ。

 マリー・アントワネットがフランスに嫁いで4年目の1774年5月10日、ルイ15世が天然痘で死去。この時、新国王ルイ16世は19歳、新王妃マリー・アントワネットは18歳だった。二人は若くして重責を担うことになったのを不安に感じ、抱き合って泣いたと言われる。しかし、フランスの人々は若き国王の即位を熱烈に歓迎。彼らは、娼婦出身の女性が公式寵姫として宮廷に君臨していることや、乱れた治世にうんざりしていた。人びとは、国が若返り、社会にも活気が出るだろうと期待した。

 日本では今でも「ルイ16世=暗愚な国王」というイメージがまかり通っているが、フランスではかなり以前からルイ16世の見直し作業が行われていて、近年、具体的成果として、まったく新しい視点で書かれたルイ16世の伝記が何冊も刊行されている。こうして明らかになったことは、ルイ16世には確かに優柔不断で不器用なところはあったけれども、そして革命期にはいくつもの失策を犯したけれども、もともとは政務に熱心な改革派の国王であって、世が世なら名君にもなり得た人物だった、ということである。主な業績は4つ。

①アメリカ独立戦争の援助 独立戦争は、アメリカ人が専制国家イギリスに対して自由と独立を求めて立ち上がった戦いだから、これを援助したのは啓蒙主義の時代にそった進歩的外交政策だった。

②寛容令 プロテスタント、ユダヤ人など、カトリック教徒以外の人々にも戸籍上の身分を認めた。

③海軍改革  ④刑罰の人道主義化 拷問の全面的禁止など。

 寵姫は、国王が死ねば存在理由を失う。アントワネットは母への手紙(17745月14日)にこう記す。

「新国王は、あの堕落者を修道院へ送り、けじめをつけ、宮廷からそのスキャンダルの名となっていたものを追い出したのです」

 「堕落者」とはもちろんデュ・バリー夫人のことである。

ルイ・エルサン「貧民を見舞うルイ16世」ヴェルサイユ宮殿美術館

‭ラ・アンドレ・モンショー「ニコラ・ベルーズを世界探検航海に送り出すルイ16世」1785年 ヴェルサイユ宮殿

ジョセフ=デジレ・コート「ラファイエット将軍」ヴェルサイユ宮殿 

 ラファイエットは1歳の時、父がイギリス軍との戦闘(七年戦争で戦死。イギリスを激しく憎んでいた。アメリカ独立戦争ではヨークタウンの戦いをはじめとする数々の戦闘でアメリカ軍を指揮した。

ラファイエットとジョージ・ワシントンの初対面、1777年8月5日 

ジョン・ワード・ダンズモア「バレーフォージのラファイエット(右)とワシントン」

アルマン・ヴァンサン・ド・モンプチ「ルイ15世」1774年 ヴェルサイユ宮殿

ヴィジェ=ルブラン「デュ・バリー夫人」1782年 コーコラン美術館

フランソワ=ユベール・ドルーエ「王太子妃マリー・アントワネット」1773年 コンデ美術館

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