「マリー・アントワネットとフランス」9 マリア・テレジアの死と王太子の誕生
長女出産後、マリー・アントワネットに妊娠の兆候はあらわれない。毎年のように孕んで16人の子を産んだマリア・テレジアには、そのことに合点がいかず繰り返し手紙で催促する。
「あなたの御子には弟か妹が必要です。しかもあまり待たせてはいけません。愛しい娘よ、あなたにできることをなおざりにしてはいけません。」(1779年4月1日)
マリー・アントワネットが麻疹に罹った時も、娘を心配しつつも世継ぎの催促は忘れない。
「あなたは国王陛下に、また国民に対しても、健康である義務を負っており、また世継ぎの王太子の誕生を熱望する私にも、いくらかの慰めを分け与えていただかなくてはなりません。しかも急いでいただかなければ、私にはもう時間がありません。」(1779年5月1日)
しかし、マリア・テレジアを喜ばせる報せは届かない。マリー・アントワネットもこんな手紙を書くしかない。
「愛するママに新たなおめでたの兆候をお知らせしたいと、心から願っております。しかし今はまだできそうにありません。麻疹から回復するのにとても長くかかりましたし、前回の月の障りは26日からでしたが、気を失うかと思うほど重いものでした。そのため今のところは妊娠しているとは思えません。しかしママは納得してくださいね、私がすぐに身ごもることがなくても、私のせいではないことを。」(1779年5月15日)
マリア・テレジアの第二子誕生への想いは募るばかり。
「使いの者の手で届けられたあなたの16日付のお便りは、あなたとあなたの大切な子供の健康についてすっかり安心させてくれました。しかし、待ち切れない思いで待っているあなたの新たなご懐妊については、満足させてくれるものではありませんでした。あなたの御子はもうすぐ1歳です。小さなお仲間が必要でしょう。私たちの誰もがそれを望んでいます。」(1779年12月1日)
この手紙からさらに半年が過ぎてもやはりアントワネットに懐妊の兆候は見られない。マリア・テレジアは遂に脅迫のようなこんな手紙を書く。
「私たちには王太子が必要です。この点について、これまで私は控えめでした。でも今後はしだいに強引になることでしょう。あなたと陛下がもう私たちの血を受け継ぐ子供を産まないとしたら、それは罪というものではないでしょうか。」(1780年6月30日)
しかし、状況に変化はない。マリア・テレジアはマリー・アントワネットに送った最後の手紙の中でも娘と国王の関係に言及している。
「正直な話、あなたがたが同じ部屋で休んでいないことを、正確には知りませんでした。ただ、そうではないかと思っておりました。・・・私としては、あなたがドイツ人の流儀を守り、いっしょに休めば自然に芽生える親密さを大事にされたら、と願っていたのです。」(1780年11月3日)
この手紙の26日後、マリア・テレジアは63歳でこの世を去った。その報せがヴェルサイユにもたらされたのは12月6日。王妃の悲しみは深く、発作を起こして喀血した。マリー・アントワネットが、マリア・テレジアが心待ちにしていた長男ルイ・ジョセフを出産するのは1781年10月22日のこと。マリア・テレジアの死の10か月後のことである。ぎりぎりで懐妊の知らせも耳にすることはなかった。
フランスじゅうが王太子誕生を歓喜をもって讃えた。テ・デウムが、花火が、民衆のお祭りが、庶民の舞踏会が、ご馳走の並んだ立食パーティーが、ワインの飛沫が、施しの分配・・・が続いた。名実ともにフランス王妃となったこのころが、マリー・アントワネットの絶頂期だった。
「1781年に生まれた王太子を囲む国王一家」ヴェルサイユ・トリアノン博物館
フランソワ・メナジョ「1781年10月22日のルイ・ジョセフ・グザヴィエ・フランソワの誕生の寓意」ヴェルサイユ宮殿美術館
lオーギュスタン・パジュー「1781年に誕生した王太子ルイを示す、ヴィーナスに扮したマリー・アントワネット」ヴェルサイユ宮殿美術館
ジャン・ミシェル・モロー「花火」(連作「王太子の誕生を記念して1782年1月21日、パリ市によって国王と王妃のために催された祝宴」より)ヴェルサイユ宮殿美術館
ジャン・ミシェル・モロー「王の祝宴」(連作「王太子の誕生を記念して1782年1月21日、パリ市によって国王と王妃のために催された祝宴」より)ヴェルサイユ宮殿美術館
ジャン・ミシェル・モロー「仮面舞踏会」(連作「王太子の誕生を記念して1782年1月21日、パリ市によって国王と王妃のために催された祝宴」より)ヴェルサイユ宮殿美術館
「マリア・テレジアの死」
死の5分前、椅子から身を起こしたが、床には入らず座ったままの姿勢で肘掛椅子に移った。ヨーゼフ2世がそれは非常に窮屈だろうというと、同意は示したもの、「でも死ぬにはこれで十分」と言ったという。
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