「マリー・アントワネットとフランス」5 公式寵姫デュ・バリー夫人

 フランスへ嫁いだマリー・アントワネットを苦しめたのは、まず第一に厳しい宮廷儀礼(エチケット)。ウィーンの宮廷にもそれなりの宮廷儀礼はあったが、家庭的雰囲気もあって、それほど堅苦しくはなかった。しかし、ヴェルサイユの宮廷はルイ14世の時代に確立された厳格な宮廷儀礼、過剰なエチケットにがんじがらめになっていて、マリー・アントワネットには息苦しくてたまらなかった。毎晩見物人の前で衣装を夜着に着替えてベッドに入る「就寝の儀」や、何かを手渡しされるときにもいちいちその場の最高位の相手からという決まりのせいで、いつまでも待たされるような不合理には心底うんざりした。そこにはプライバシーがほとんどなかった。

 しかし、それ以上にアントワネットがショックだったのは「公式寵姫」というシステム。マリア・テレジアも、この「悪しき」制度までは事前教育していなかった。オーストリアにはそのような制度はなかったし、マリア・テレジアは神聖なる結婚を傷つけるような女たちを許さなかった。ウィーンからすべての娼婦を追放したほどだ。

 ところで、公式寵姫は日陰の存在ではまったくない。宮廷中に周知された公式の存在であって、宮廷晩餐会や舞踏会を主宰する。宮廷を訪れた外国大使たちは公式寵姫の部屋にご機嫌伺いに行く。公式寵姫は、美貌と肉体と頭脳を武器にほかの愛人たちとの熾烈な戦いを勝ち抜いてトップに上り詰めた女性なのだから、普通は「血統」だけが取り柄の王妃は、容貌、才覚とも寵姫にかなうはずがなく、寵姫の陰に隠れるような地味な存在でしかなかった。ルイ14世妃マリー・テレーズもルイ15世妃マリー・レクザンスカもほとんど知られていない。

 それでも、誰でも公式寵姫になれたわけではない。貴族の女性に限られていた。だから庶民の生まれのマントノン夫人(ルイ14世公式寵姫)やポンパドゥール夫人(ルイ15世公式寵姫)には「侯爵夫人」の称号が与えられた。マリー・アントワネットがヴェルサイユにやって来た時、公式寵姫の地位にあったのはデュ・バリー夫人。田舎貴族と形式上の結婚をして「伯爵夫人」を名乗っていたが、たんに庶民の出であるばかりか、高級娼婦だった過去さえあった。宮廷でデュ・バリーが我が物顔で振る舞っているのを、アントワネットは少女らしい潔癖さで激しく憎んだ(ただし、デュ・バリー夫人には蓮っ葉なところはみじんもなく、非常に上品な感じの女性で「天使のような人」という証言さえある。他の女性たちに居丈高に当たることもなく、むしろ、困っている人がいれば助けようとする人だった)。そしてこの時彼女は、自分を苦しめている宮廷儀礼(エチケット)を利用する。

 宮廷においては身分が下位の者から上位の者へ話しかけてはならない。つまりアントワネットが声をかけないかぎり、デュ・バリーの面目は丸潰れ。アントワネットは誰彼に愛想よく話しかけながら、デュ・バリーに対しては断固として口を閉ざした。挨拶もせず、徹底的に無視した。当時の宮廷は、寵姫デュ・バリー夫人の側に立つリシュリュー公爵派と反デュ・バリーの立場をとるショワズール公爵派が対立。そして対立の原因は寵姫だけでなく、宗教的要因や政治的要因も絡んでいた。宮廷内にはフランスとオーストリアの同盟に反対していた人も多く、リシュリュー公爵派は反オーストリア派だった。他方、ショワズールは外務大臣としてオーストリア大公女(マリー・アントワネット)と王太子との結婚を中心になって推進してきた人物だからショワズール公爵派は当然オーストリア派。アントワネットは、当人が全く意識しないうちに宮廷内の政争に巻き込まれていたのである。

 デュ・バリー夫人に泣きつかれたルイ15世は、ついにオーストリア大使メルシーに向かって怒りを爆発させ、事は外交問題にまで発展する気配となる。急使がヴェルサイユとウィーンの間を往復し、同盟への影響を案じたマリア・テレジアも猛烈な剣幕で国王の望みをかなえるよう娘に迫る。

映画「マリー・アントワネット」ソフィア・コッポラ監督 2006年 

 真ん中がデュ・バリー夫人。極端に下品に描かれている。

フランソワ・ユベール・ドルエ「フローラに扮したデュ・バリー伯爵夫人」ヴェルサイユ宮殿美術館

ジャン=バティスト・アンドレ・ゴーチエ=ダゴティ「デュ・バリー夫人」ヴェルサイユ宮殿

「ジュラ・ベンツールルイ15世とデュ・バリー夫人」ハンガリー国立美術館

フランソワ・ユベール・ドルエ「63歳のルイ15世」1773年 ヴェルサイユ宮殿美術館 ルイ15世の最後の肖像画

ルイ=ミシェル・ヴァン・ロー「ショワズール公」ヴェルサイユ宮殿

フロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジャントー「フランス駐在オーストリア大使メルシー伯爵」1757年 任期:1766年 – 1790年

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