「マリー・アントワネットとフランス」3 ウィーン~ヴェルサイユ

 1770年4月21日午前9時半、マリー・アントワネット一行は1570キロ離れたヴェルサイユに向けてウィーンを出発。マリア・テレジアが娘に送った別れの言葉。

「こよなく愛しい我が子よ、さようなら。これからは大変な距離が私たちを隔てることになります・・・。フランスの人々のためにたくさんの善行をなし、私が天使を送り込んだと言ってもらえますように」

 母娘にとって、これが永遠の別れになる(マリア・テレジアが亡くなるのは、この10年後の1780年11月29日)。出発して16日目の5月7日、国境を流れるライン川の中州(現在はない)で、花嫁引き渡しの儀式が執り行われた。この儀式のために建てられた二棟の建物のうち、まずアントワネットはオーストリア側の建物に入る。そこでオーストリアから持参して身につけている衣装を脱ぎ捨て、フランス使節団が持参したフランスの宮廷衣装を着用する。すると大広間(二棟の建物をつないでいた)のドアが開き、アントワネットを先頭にオーストリアの使節団は大広間に入っていく。大広間の真ん中には深紅のビロードに覆われたテーブルが置かれており、国境を示している。オーストリア側に立ったアントワネットに対してフランス国王特使ノアイユ伯爵が歓迎の辞を述べ、オーストリア側の最高責任者であるシュタルヘンベルク公がアントワネットをフランス側の席に案内し、オーストリア使節団は大広間から立ち去る。こうしてアントワネットは、ウィーンから一緒に来た人々と別れ、その身柄はフランス側に引き渡されたのである。

 引き渡しの儀式が終わると、アントワネットは馬車に乗り、橋を渡ってストラスブールに向かう。生まれて初めてアントワネットが目にするフランスの都市。王太子妃を乗せた馬車が町に入ってくると、三発の号砲が轟き、町中の教会の鐘が鳴り始めた。ストラスブールは100年ほど前まではドイツ領だったので、ドイツ語を話す人が多かった。町の入口で待ち構えていたストラスブール最高行政官は、王太子妃がドイツ語圏からやって来たことを思いやって、ドイツ語で歓迎の言葉を述べ始めたが、マリー・アントワネットはすかさず演説を中断し、次のように述べる機転を見せた。

「皆さん、ドイツ語は話さないでください。きょうからは私はもうフランス語以外の言葉は耳に入れたくありません」

 このことを報告で知ったマリア・テレジアの喜びはいかほどだったことだろう。ストラスブールの人々の歓迎ぶりはすさまじいほどのものだった。町中総出で未来のフランス王妃を出迎えたかのようだった。沿道の建物のバルコニーには美しい壁掛けが飾られ、街角でオーケストラが音楽を奏でた。羊飼いに扮した少年少女たちがマリー・アントワネットに花束を差し出し、アルザス地方の伝統衣装に身を飾った乙女たちがバラの花びらを投げかけた。人びとはアントワネットのやさしい微笑みに魅了された。それから大宴会、観劇、花火の打ち上げ、舞踏会が、延々深夜まで続いた。

 翌朝、ストラスブール大聖堂前で歓迎式典が行われた。大司教が体調不良だったため、代わって甥の大司教補佐が歓迎の辞を述べた。

「今まさにマリア・テレジアの魂とブルボン家の魂が結びつこうとしています。これほど素晴らしい結びつきから生まれるのは、黄金時代の日々であるに違いありません・・・」

 この若い聖職者こそ、後年、有名な「首飾り事件」でアントワネットの人気を決定的に損ねることになる後のロアン枢機卿である。

 この後も、マリー・アントワネットは行く先々の町で熱狂的歓迎を受け続けた。そして5月14日、パリの北方数十キロのところにあるコンピエーニュで、いよいよ国王ルイ15世と王太子ルイ・オーギュストと初めて対面する。そして5月16日、ヴェルサイユ宮殿内の礼拝堂で結婚式が執り行われた。花婿は15歳と9カ月、花嫁は14歳と6カ月だった。

マリー・アントワネットのヴェルサイユ到着 1770年5月16日

マリー・アントワネットの婚礼ルート

アントン・フォン・マロン「マリア・テレジア」1773年 ウィーン美術史美術館 1765年に夫フランツ1世を亡くしてから喪服姿

「王太子妃マリー・アントワネット」ヴェルサイユ宮殿美術館

ルイ=ミシェル・ヴァン・ロー「王太子ルイ・オーギュスト」1769年 ヴェルサイユ宮殿

フランス王太子ルイ・オーギュストとオーストリア皇女マリー・アントワネットの結婚式 1770年5月16日

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