「マリー・アントワネットとフランス」1 フランス王太子妃候補

 マリア・テレジアは、フランス・ブルボン家との同盟関係を強化するために、息子の嫁をブルボン家(スペイン・ブルボン家、フランス・ブルボン家)からめとり、娘たちをブルボン家に嫁がせた。長男ヨーゼフはパルマ公イザベラ(パルマ公国は1748年からスペイン・ブルボン家領)、三男レオポルト2世はスペイン王女マリア・ルドヴィカ、六女マリア・アマーリエはパルマ公フェルディナント、十女マリア・カロリーネはナポリ王フェルディナント4世(ナポリ王国は1734年からスペイン・ブルボン家領)、十一女マリー・アントワネットはフランス王ルイ16世(フランス・ブルボン家)と結ばせた。マリア・テレジアは、ハプスブルクの有名な家訓、「戦争は他の者にまかせておくがいい。幸いなるかなオーストリアよ。汝は結婚すべし!」をまさに身をもって示した。

 それが可能になったのはもちろんそれだけ子だくさんだったから。マリア・テレジアはフランツとの幸福な結婚生活の間に16度懐妊し、16人出産した。その間19年10カ月。20年弱の間になんと16人!しかもこの20年という歳月は、平穏な日々ではない。オーストリア継承戦争というオーストリアが未曾有の国家的危機に陥り、彼女自身も絶壁のぎりぎりまで追い詰められていた時期が含まれる。そのような苦難の中で、妊娠と出産を繰り返していたのだから驚くばかりだ。もちろん彼女がそれほどまでに子宝作りに励んだのは、苦心惨憺たる思いをさせられたオーストリア継承戦争の最大の原因が、父帝カール6世に嫡男がなかったことにあることを痛感していたからだが。

 子どもは生まれても成人するとは限らない。マリア・テレジアの場合も16人出産したが、6人は10歳そこそこで死亡。その原因のほとんどは、当時の最大の疫病だった天然痘。実はマリー・アントワネットがフランス王太子妃になったのもこのことと関係する。当初、フランス王太子に嫁ぐことになっていたのは、姉の十女マリア・カロリーネだった。カロリーネの気質はマリア・テレジア似で、賢明さと政治能力からしても大国の妃にぴったりだ(実際、彼女はナポリで夫を押しのけて政治の実権を握った。彼女が順当にフランス王妃になっていれば、革命勃発はいま少し遅れていたかもしれないし、王政廃止にまでは至らず立憲君主制でとどまったかもしれない)。アントワネットにはどこか小さい公国をとかんがえていた。ところが、ナポリ公フェルディナント4世の結婚相手に決まっていた八女マリア・ヨハンナが12歳で死去。代わりに選ばれた九女マリア・ヨーゼファも、なんと代理結婚式当日に天然痘で亡くなってしまった。そこで急遽、十女マリア・カロリーネが選ばれ、マリー・アントワネットが姉の代わりにフランスへ嫁ぐことになったのだ。

 ところで、マリー・アントワネットの教育はなっていなかった。16人の子供を産みつつ、オーストリア女帝として政務に没頭してきたマリア・テレジアは、とても子供たちの教育までは手が回らなかった。子どもの教育は養育係に任せきりにしてきた。マリー・アントワネットは要領がよく、家庭教師を言いなりにできる才能があった。家庭教師プランダイス伯爵夫人は、普通の母としての愛情を受けることのできなかったマリー・アントワネットを溺愛し、彼女もその愛情にどっぷりと浸った。甘やかすあまりに、真面目に教えることも、マリー・アントワネットの怠惰を叱りつけることもなく、課題の答えを丸写しにさせた。

 フランス王太子との結婚が本決まりになって、マリア・テレジアは教育係まかせにしたのは大失敗だったことを知らされる。この愛くるしい少女は甘え上手の逃げ上手で、苦手な勉強からまんまと身をかわしてこれまできたのだった。男児ほどの教養はいらないとは思っていたものの、それにしてもの文章能力の低さ(母国語であるドイツ語の文法もまちがいだらけ。作文となると、落着きと集中力がないため、かなりの時間がかかった)、フランス語会話能力の低さだ。読書も途中ですぐに飽きて、一冊も読了することができない。フランスとオーストリアの友好の架け橋となる大事な任なのに、本人は華やかなヴェルサイユ宮廷の主役になるのを喜んでいるばかり。マリア・テレジアは焦る。

ヨハン・ゲオルク・ヴァイケルト「『愛の勝利』を踊るマリー・アントワネット」10歳 ヴェルサイユ宮殿美術館

マリア・クリスティーネ「皇帝一家のサンタクロースの贈り物」シェーンブルン宮殿 人形を手にしているのがマリー・アントワネット(7歳頃)

ジーン・エティエン・リオタール「マリー・アントワネット」7歳頃 シェーンブルン宮殿


フランツ・クサーヴァー・ヴァーゲンシェーン「チェンバロを弾くマリー・アントワネット」14歳 ウィーン美術史美術館

アントン・ラファエル・メングス「ナポリ王妃マリア・カロリーナ」プラド美術館

アントン・フォン・マロン「マリア・テレジア」1772年 1765年に夫フランツ1世を亡くしてから喪服姿

マリア・テレジアの婚姻政策

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