「マリア・テレジアとフランス」14 「外交革命」(14)「七年戦争」

 「外交革命」=フランス・オーストリア同盟の実現にあたってポンパドゥール夫人の果たした役割の大きさは、カウニッツの夫人宛書簡(1756年6月9日)からもうかがえる。

「このほど二国間でなされたことはすべて、公爵夫人、これは完全にあなたのご熱意とご叡智の賜物です。わたしはそれを感じており、このことをあなたに申し上げ、また今日まであなたがわたしの導き手であってくれたことに感謝申し上げる喜びをそのままにしておくことはできません。わたしは、また、わが両陛下(注:マリア・テレジアと夫の皇帝フランツ1世)があなたをおおいに多とされ、あなたに対してあなたが好ましくお思いになるはずのご感情をおもちになられていることも、お知らせしておかぬわけにはまいりません。このほどなされたことは、わたしが思うに、公平な民衆と後世のひとびとの称賛に価するに違いありません。しかし、まだまだなさるべきことはまことに多く、またまことにあなたにふさわしいこととしてあり、あなたは永遠に祖国であなたをかけがえのないお方とするはずのお仕事を、けっして不完全なものとして残さないようお力を尽くしてゆかれぬはずはございますまい。わたしはこうした重要な目標にあなたはお心遣いを持続されることと確信しております。そしてその場合、わたしは成功は間違いないものとみております。わたしはすでにまえもって、やがてあなたのものとなるはずの栄光と喜びを共有しておるものです。まず誰一人として、このわたし以上に、心から、敬意をこめて、あなたに忠実である者はありえぬことでございましょう。敬具    カウニッツ・リートベルク伯爵」

 さすがカウニッツ、帝妃マリア・テレジアの彼女に対する敬意がポンパドゥール夫人の自尊心をくすぐることがわかっている。ポンパドゥール夫人の歴史における役割(彼女が「外交革命」の唯一の作り手ではなかったが)を確証しているこの手紙ほど、彼女にとってうれしい記録はなかったことだろう。しかし、ポンパドゥールの行為を民衆は称賛しなかった。世論はこう歌った。

「ハンガリー女王(注:マリア・テレジア)のために流そうや    

 おれたちのありったけの血を

 シュレージエンのために彼女にやろうや             

 おれたちのありったけの金を

 彼女はちゃんと妾(ラ)・ポンパドゥールのお気に入りになったんだ   」

 フランス人は総体としては、オーストリアとの同盟を評価しなかった。フランス革命とマリー・アントワネットの関係を見る時に、この事実を忘れてはいけない。彼女個人の軽率な言動、贅沢さだけが民衆の怒りを買ったわけではなかったのだ。根底に根強い反オーストリア感情があったのだ。

 ところで、プロイセンのフリードリヒ2世はオーストリアとフランスが手を結んだと知って驚愕する。当時のオーストリア・フランス・ロシアは、いずれも単独でプロイセンを軽く上回る国力を有したが、それらが結束して対プロイセン包囲網を結成したのだ。彼我の人口比は20倍近く(9000万対500万)にも達した。かたやプロイセンは孤立していた。イギリスから資金援助は受けられたが、準軍事的に見れば、イギリスは植民地戦争に専念していた。フリードリヒは国家存亡の危機を悟り、一か八かの賭けに出る。宣戦布告なくザクセンを急襲したのだ。こうして七年戦争が始まる。

 プロイセンは傑出した軍事力を生かして攻勢に出る。初期には戦勝を重ね、フリードリヒ「大王」の威名は内外にとどろいた。しかし勢力の差はいかんともしがたく、プロイセンは次第に守勢に回る。国土は戦場となって荒廃し、ときに首都ベルリンを占拠され、ときにフリードリヒが自殺を決意するまでの大敗を喫する中、プロイセンの敗北は時間の問題と思われた。だが事態は意外な展開を見せる。ロシアのエリザヴェータ女帝が突然死去したのだ。後継者のピョートル3世は、フリードリヒ2世の熱烈な崇拝者。ロシアは戦争から手をひく。これによりマリア・テレジアのシュレージエン奪回の夢は、最後の瞬間にはかなくも消え去ったのである。

シェーンブルン宮殿 

 ハプスブルク王朝の歴代君主が主に夏の離宮として使用。1部屋数は1441室

リオタール「マリア・テレジア」1762年

アントン・グラフ「フリードリヒ2世」1781年 サン・スーシ宮殿

サン・スーシ宮殿 

 1747年にプロイセン王国のフリードリヒ2世の宮殿として建てられた

ゲオルク・クリストフ・グロース「エリザベータ女帝」ガッチナ美術館

ドルーエ「ポンパドゥール夫人」1764年

0コメント

  • 1000 / 1000