「マリア・テレジアとフランス」13 「外交革命」(13)フランスのメリット
フランス・オーストリア同盟の話を最初に持ち出したのはオーストリア。プロイセンに奪われたシュレージエンを取り戻すため、強国フランスに接近したのだ。ではフランスにとって、この同盟はどんなメリットがあったのか?ポンパドゥール夫人のベルヴュー城館での会見についてベルニスはこう書いている。
「わたしは白状するが、わが国王に同盟を提案するのに帝妃(マリア・テレジア)のとられたやり方ほど、わたしを驚かせたものはなかった。この女王はわが国王がプロイセン王に不満を抱いていると考え、ベルリンの宮廷がロンドン政府と行っている交渉のことを教えられた。ヴェルサイユ宮廷にはそれまでまったく知られていなかった状況であった。帝妃は、婉曲な言葉や術策を用いるかわりに、その見解のすべてをこのうえない率直さで国王に伝えられ、陛下のお心をひきつけるにちがいない様々な有利な点、非常に大きな計画―― これについては今ここで記すわけにはいかないが ――などを陛下に提案されたのである」
オーストリアはフランスにハプスブルク領ネーデルラントの西半分を提供する上に、宿願であったロートリンゲン(ロレーヌ)をも放棄する代わりに代わりに、フランスがプロイセンとの同盟関係を解消し、シュレージエンの奪回を兵力と資金の両面で支持してくれることを求めた。同盟締結の鍵はプロイセン。シュタレムベルクは、イギリス、オランダの海軍勢力と結んだプロイセンの果たしている役割についても断言するが、折しもプロイセンとの同盟を更新しようとしていたフランスは慎重な態度を変えない。会談の続きはパリで、シュタレムベルクとベルニスのあいだで極秘裡に行われたが、ベルニスは報告書にこう書いている。
「国王は、誓いと、名誉という掟に忠実で、極めて重大な理由、極めて明確な証拠というもののない限り、同盟国と絶縁なさらぬというばかりでなく、その信義をお疑いになることも、その背信行為、裏切りの可能性を信じることもなさらない」
この慎重さはマリア・テレジアの自信に満ちた期待を裏切るものだった。彼女は提案した計画を放棄すると宣言する。しかし、宰相カウニッツは違った。少しも落胆せず、文書の交換を継続していた。彼は、プロイセンの二心をルイ15世に納得させられる時が遠からずやって来ることを確信していた。そして、1756年1月、カウニッツの期待は現実となる。フリードリヒ2世が動いたのだ。
1755年12月23日、パリ駐在のプロイセン大使に対する秘密指令の中でフリードリヒは、ロシア(1746年にオーストリアと攻守同盟締結。シュレージエン奪回を望むオーストリアと、スウェーデン、プロイセンを排除してバルト海沿岸で領土を獲得しようとするロシアの利害が一致)がすでにバルト海東岸のリーフラントとクーアラントに兵員を終結させているばかりか、オーストリアもベーメンとメーレンに貯蔵庫を設け、相当な兵力を出撃させようとしている、と伝えている。三国同盟が結成され、南からオーストリア、東と北からロシア、そして、西からはロシア・イギリス・ハノーファー連合軍が一気にプロイセンを攻めてきたらどうなるか、王はそれを恐れたのである。シュレージエン戦争での体験から見ても、フランス軍はあまりあてにならない。開戦となれば主戦場はハノーファーだろう。そう判断したフリードリヒは伯父であるジョージ2世との間にドイツ中立協定を結び、ハノーファーの安全を保障することを提案。もちろんロシアの援助をイギリスが断る、という条件である。海外でのフランスとの戦いに忙しいイギリスは1756年1月16日、この提案を受け入れ、「ウェストミンスター条約」に署名した。
いまやフリードリヒの二心は明白である。ベルニスは顧問会議で、オーストリアの同盟提案をフランスが拒否することは、フランスを最悪の危険にさらすことになるだろうと言明し、顧問会議を説き伏せる。こうして歴史上「ヴェルサイユ条約」と呼ばれる条約が、1756年5月1日調印された。植民地戦争に忙しいフランスはドイツでジョージ2世と戦う気はない、だからフランスはウェストミンスター条約を許容してくれるものとフリードリヒはたかをくくっていた。フリードリヒの読みは甘すぎた。
「マリア・テレジア記念碑」マリア・テレジア広場 ウィーン マリア・テレジアの足下に居並ぶ廷臣の中央がカウニッツ
「マリア・テレジア記念碑」マリア・テレジア広場 ウィーン カウニッツ像
マルティン・ファン・マイテンス「帝妃マリア・テレジア」1759年 ウィーン美術アカデミー
1758ブーシェ「ポンパドゥール夫人」
ヨハン・ゲオルク・ツィーゼニス「フリードリヒ大王」1763年 サン・スーシ宮殿
ジョン・シャクルトン「ジョージ2世」1757年頃 バッキンガム宮殿
在位:1727‐60年 ハノーバー朝第2代の王。
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