「マリア・テレジアとフランス」12 「外交革命」(12)オーストリアとフランスの接近

 パリ駐在オーストリア大使はシュタレムベルク伯爵に代わったが、カウニッツはパリを去るとき、のちのちまでかわらない友情をポンパドゥール夫人に約束していった。カウニッツは夫人から、文通の許しと、そして自分の後継者シュタレムベルクのために特に目をかけてくれるという約束を、たやすくとりつけた。カウニッツと取り結んだポンパドゥール夫人の友情は、ウィーン宮廷にとって効果は絶大だった。オーストリアはフランスとの持続的な接近にあたって、ポンパドゥール夫人を仲立ちとしてやってゆくことになる。

 カウニッツの巧妙なところは、この宮廷女性となった平民出身の女性に対して、彼以前には誰ひとり思い切って取ろうとしなかった秘法伝授の役割を演じたことであった。つまりは、彼はポンパドゥール夫人の政治的生涯の作り手のひとりなのである。彼女は彼に選ばれたことを嬉しがった。彼は彼女にヨーロッパ政治の広大な地平をかいま見せてくれ、彼女はその地平を広げるという考えに酔うことができた。

 ルイ15世に顧問会議は意見が分かれたままだった。フランスがプロイセンと1747年に結んだ防衛同盟は1756年に終結するが、陸軍卿ダルジャンソン伯はそれを更新することの信奉者だった。財務総監(後の海軍卿)マショーは、外国勢の支援もあえていらない海戦だけにしたいと願っていた。

 書簡というかたちで続いていたポンパドゥール夫人のカウニッツとの友情は、やがて急速に第一線の役割を果たすようになっていく。カウニッツの一通の手紙が、彼女の気持ちを固めさせることになる。

「侯爵夫人、あなたの想い出にふれる喜びをわたしはいつも思ってきました。その機会が訪れましたが、これはわたしの存じ上げているあなたのお気持ちからして、ご不快となろうはずもありますまいと思われます。シュタレムベルク伯爵は陛下にご提案すべき極度に重要な案件を持っておりますが、その案件は、フランス国王陛下が全きご信頼を賜わられ、シュタレムベルク伯爵にお当てになられる一人物を通じてのみ協議されうる種類のものでございます。われわれの提案は、あなたがわれわれと協議する人物を陛下におたずねになられる労をみずから悔まれる仕儀にはなるまいものと、わたくしは思います。それどころか、このことであらたな愛情のしるしと、そしてわたしが光栄にも抱いている尊敬のしるしをあなたにお与えしたことで、あなたはわたしに満足されることと、わたしはひそかに期待しております・・・・」

 ヨーロッパの大きな政治に自分を引き入れるこの手紙にかなり自尊心を満足させられて、夫人はマリア・テレジアがルイ15世に書いた短い手紙を、手渡すことを引き受ける。その手紙は単に意思の表明に過ぎないものだが、しかし重大事に関するものだということが歴然としている。

「帝妃、女王の名にかけて、わたくしは、シュタレムベルク伯爵を通じてフランス国王陛下にわたくしから提案されるすべては、このさきいっさい洩らされることはなく、またこの点に関し秘密は完璧に守られるであろうということをお約束します。これは永久に、たとえ交渉の成功、不成功たるとを問わず。むろん、わが皇帝もまた、同様の表明、お約束をなすものです。  ウィーンにて、1755年8月21日」

 ポンパドゥール夫人は、1751年からヴェネツィア駐在フランス大使を務め、ヴェルサイユに多くの一級の情報を送ったベルニスをシュタレムベルク伯爵との交渉者に指名。ルイ15世はこれに同意を与えた。帝妃の異例の仕方はルイ15世に、事は極めて重大なことに関連しているということを理解させた。彼はマリア・テレジアがフランスとオーストリア間の協定をまさに考えているのだということを、ほとんどつかんでいた。彼は帝妃には感心していたので、希望されている対話の方針はすぐに躊躇なく受け入れたのである。

 シュタレムベルク伯爵とベルニスの会見は、ポンパドゥール夫人のベルビュー城館庭園内の小亭で行われた。シュタレムベルクとベルニスは、めいめいのところからセーヌの土手沿いの道を通ってやってきた。彼らは供の者たちや馬車を返すと、待っていたポンパドゥール夫人に迎えられた。


「イルカ香炉」ルーヴル美術館 ポンパドゥール夫人のエヴルー邸の寝室の暖炉に置かれていた

ブーシェ「ポンパドゥール夫人」1759年 ウォーレスコレクション

ブーシェ「ポンパドゥール夫人」1754年 ヴィクトリア・アルバート美術館

「ベルニス」1744年 ヴェルサイユ宮殿

アレクサンドル・ロスラン「シュタレムベルク伯爵」1762年

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