「マリア・テレジアとフランス」11 「外交革命」(11)ポンパドゥール夫人
カウニッツがフランス大使としてパリに赴いたのは1750年10月のこと。この年、ポンパドゥール夫人は健康を害したため1745年以来続いた愛妾の座から降ろされていた。しかし、国王ルイ15世に対する影響力が失われたわけではない。賢い彼女は、国王の最良の相談役であり、友人であろうと決意する。ヴェルサイユ宮殿3階にある愛妾の間を後にしたポンパドゥール夫人は、1階に与えられた部屋に暮らすようになり、国王との間に新しい関係が生まれた。彼女は、ルイ15世を偉大な国王にすることに全力投球する。
「わたくしは国王を本当に愛しているのです。わたくしは自分の人生のすべてをあの方のために捧げるのです」(貴族のニコラ・ドゥ・オセに語った言葉)
毎週火曜日に「アポロンの間」で行われる閣議に、国王はポンパドゥール夫人の出席を要求するようになる。そして決断を下すときには必ず彼女の意見を求めた。フランスに滞在していたプロイセンの貴族クニュプハウゼン男爵は、フリードリヒ2世にこう報告している。
「閣議において、それが国内のことであろうと国外のことであろうと、ポンパドゥール夫人に通達せずには、いかなる重大な決議もなされないのであります。夫人の信用はかくも大きいのであります」
オーストリアの新任大使カウニッツ伯爵が友情をかちえようと狙いをつけたのがこのポンパドゥール夫人だった。彼はこう報告している。
「最初の謁見のときから、わたしはポンパドゥール夫人に慇懃にふるまうのを忘れませんでした。国王はそれで私に満足し、彼女は感じ入ったのがわたしにはわかります」
当時カウニッツは39歳。長身、痩身で髪はブロンド。女性的ともいえる色白の柔肌。大きな淡青色の眼には物事に動揺することのない冷静な精神が溢れていた。自分の容姿が自慢で、身づくろいにもたいへんな念の入れ方だった。彼には衣服を着けるのに鏡が4つ必要だった。そしてその有名なかつらの数々が、「愛の罠」のために並べられていた。カウニッツは女性たちに対して成功を収め、。宮廷にたくさんの友人をつくってゆく。もちろんポンパドゥール夫人の好意も得ていく。「国王のお仲間うちに大使をひとり入れることが可能とするなら、それはわたしだと、ほのめかされたものでございます」とのカウニッツの報告に勇気づけられた帝妃マリア・テレジアは、フランス国王の友情をかちえようとつとめる。彼女は子どもたちのひとりの名親になってくれるように申し入れる。国王は心を打たれた様子を見せる。カウニッツはその反響をとりまとめて、こう書いている。
「わたしはそれでかなり長くポンパドゥール夫人と話し合う機会をもちました。そこでわたしは、彼女が繰り返し国王に伝えてくれればわたしとしてうれしいと思うさまざまのことを、彼女に話しました。彼女はわたしに、国王は現に帝妃陛下を敬愛されているのみならず、戦争の最中ですら、たいへんな友情とこのうえない尊敬の気持ちをつねに抱かれていたと断言いたしました。そのうえ、彼女はわたしと、このようなことでは意見が一致しております。つまり、もし国王と帝妃陛下とが相知り、相まみえ、ともに語ることができるならば、おふたりのあいだにはこのうえなく緊密な、完璧な信頼が生まれるだろうということです」
しかし、誤解してはいけない。カウニッツとポンパドゥール夫人の友情は、全般的な政治そのものを変えるに至らせたわけではない。フランスはあいかわらずプロイセンに盲従したままだった。カウニッツが手にしたと判断できたのは、フランスはもはや1740年当時のようにオーストリアに敵意を示そうとは思っていない、ということがせいぜいだった。彼はこう述懐している。
「われわれが憎まれないようにできて、わたしはとてもうれしい」
そして赴任してから2年後の1752年、カウニッツはウィーンへ向けて旅立つ。宰相にするため女帝が召還したのである。しかし、ポンパドゥール夫人との友情、信頼関係はやがて偉大な成果をもたらす。
マルティン・ファン・マイテンス「マリア・テレジアとその家族」1751年 ウィーン美術史美術館
マルティン・ファン・マイテンス「皇帝妃マリア・テレジア」1753年 シェーンブルン宮殿
ジャン・マルク・ナティエ「ディアナに扮したポンパドゥール夫人」1748年
カンタン・ラ・トゥール「ポンパドゥール夫人」1755年 ルーブル美術館
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