「マリア・テレジアとフランス」2 「外交革命」(2)フランスVSハプスブルク②三十年戦争
16世紀、フランソワ1世のもとで中央集権化に乗り出すと同時に、スペインと神聖ローマ帝国を支配していたハプスブルク家の帝国(ハプスブルク帝国)との戦争を始めたフランスだが、アンリ2世以降、国内の宗教戦争(1562年~1598年 ユグノー戦争)の激化とともに、対外戦争どころではなくなって内政に集中せざるを得なかった。その結果、ヨーロッパ大陸ではハプスブルク家の優位が続き、ハプスブルク家がフランスより先に中央集権体制を成し遂げる可能性が出てきた。
この状態を深く憂慮したのが、ルイ13世の宰相となったリシュリュー。国際感覚に恵まれていたリシュリューは、ドイツで始まった三十年戦争がカトリックの皇帝軍の勝利に終わったとしたら、ハプスブルク家による統一と中央集権化は避けられず、フランスは後塵を拝することになると結論づける。
ところでこの三十年戦争、1618年に始まったきっかけは5月23日のプラハ城での皇帝代官投げ落とし事件(「プラハ窓外放擲事件」)。プロテスタントのボヘミア貴族が神聖ローマ皇帝による宗教的自由の蹂躪に抗議してプラハ城内に押入り,皇帝の代官ら3名を窓から放出した事件である。原因は、1617年にイエズス会仕込みの熱烈なカトリック教徒で対プロテスタント強硬派として知られていたハプスブルク家のフェルディナント(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)がボヘミア王に即位したこと。彼は、それまで容認されてきた信仰の自由を認めず、「再カトリック化」を強行した。そしてフェルディナント2世のもとに、「リーガ」(神聖ローマ帝国内のカトリック諸侯の連盟)とイタリア、スペイン、ローマ教皇の救援軍が結集。1620年、プラハ郊外の「白山の戦い」で、プロテスタント軍に壊滅的な打撃を与えた。
こうして神聖ローマ帝国内での新旧両派諸侯間の宗教対立から始まった三十年戦争だが、新教国デンマーク、スウェーデンが新教側援助を名目に参戦したことでヨーロッパ全体を巻き込む戦争へと発展していった(「最初の国際戦争」と呼ばれる)。フランス国内ではカトリック側を中心に、皇帝と同盟してカトリック勢力に加わり、プロテスタントへの聖戦を実施すべしとの意見(王母マリー・ド・メディシスや側近の高官マリヤックら)が強まる。しかし、1630年に王母マリーを追放して権力を掌握したリシュリューがとった政策は、ハプスブルク家に対抗するために、プロテスタント勢力と提携するというものだった。リシュリューはまず、1631年にスウェーデンと「ベールヴァルデ協定」を結び、グスタフ2世アドルフに毎年100万リーヴルを提供することを定めた。そして、プロテスタント側の形成が不利となった1635年にはオランダおよびスウェーデンとの同盟を更新し、スペインと神聖ローマ帝国に宣戦布告したのだった。
30年にわたった戦いの結果、ことに主戦場となったドイツとボヘミアは荒廃した。人口の4分の1にあたる400万ないし500万が命を失ったと言われる。その惨状は当時の記録にも生々しい。
「十里歩いても人っ子ひとり、家畜一頭、雀一羽にすら出くわさない。・・・全ての村で、家々が死体と腐肉で満ちており、男、女、子供、雇人、馬、豚、牛が、並び重なり合って、飢えとペストで死に、うじ虫でいっぱいだ。そして、もう屍を埋葬して悲しみの涙を流す人もいないため、狼や犬やカラスに食い荒らされるにまかされている。」
1648年、ウェストファリア講和条約が結ばれる。この条約では、さきのアウグスブルクの宗教和議(1555年)が確認され、これまで除外されていたカルヴァン派を含む新旧両教の信仰の自由が認められた。フランスはアルザスを獲得し、スペインに反旗を翻していた北部ネーデルランド(オランダ)の独立が正式に承認された。しかし、この条約の最も重要な結果は、これによって神聖ローマ帝国が有名無実化したことである。帝国内の諸侯(領邦君主)には、完全な信仰の自由が保障され、それとともに彼らの主権はいちじるしく強化された。彼らは、外交主権を認められ、諸外国と自由に条約を結ぶことができるようになった。こうしたドイツ分裂の張本人がリシュリュー。19世紀ドイツ・ナショナリズムの憎悪の的となったのも当然だろう。
ジャック・カロ版画『戦争の惨禍』(1632年)三十年戦争時の虐殺を描いた
ゲオルク・パハマン「フェルディナント2世」ウィーン美術史美術館
1618年5月23日 プラハ窓外放擲事件
フィリップ・ド・シャンパーニュ「リシュリューの三面像」ロンドン・ナショナル・ギャラリー
ルーベンス「マリー・ド・メディシス」プラド美術館
ヘラルト・テル・ボルフ「ウェストファリア条約締結の図」アムステルダム国立美術館
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