「ヴェルサイユ宮殿・庭園とルイ14世」9 公妾マントノン夫人①

 モンテスパン夫人に関する正式の調査は行われなかった。尋問も全くなかった。ルイ14世がそれを拒否したのだ。夫人はルイ14世の6人の子供たちの母親である。しかも、6人とも国王によって正式に認知されている。その母親を罪人にするわけにはいかない。それ以上に、そうした女を愛妾にしていたことがわかれば、国王の威信は地に落ちてしまう。ルイ14世は、警視総監ラ・レニーに、夫人に関する調査は一切しないように厳しく命じる。警視総監は国王に命じられたとおりに、モンテスパン夫人の名が書かれている書類を金庫の中に隠し、誰の目にも触れないようにした。

 1709年7月にラ・レニーが死ぬと、国王は彼が金庫の中にしまっていた書類を宮殿に持ってこさせた。そして、暖炉の中に一枚一枚自ら投げ込み、証拠は灰と化した。それを見届けた国王は、これでこの汚点は永久に葬られ、歴史に書かれることはないと安心したことだろう。それならなぜ、今日われわれは、毒殺事件に関するモンテスパン夫人の嫌疑を垣間見ることができるのか?実は、警視総監ラ・レニーは生前に調査書の一部を別に作成して、密かに保管していたのだ。そしてその私的メモが国立図書館の自筆原稿部に保管されているのが19世紀に発見されたことから、真実が広く知られるに至ったのだ。

 モンテスパン夫人はどうなったかというと、宮廷から追放されることはなかったものの、公式の場で王から声をかけられることはなくなる。17年近く続いた「モンテスパン夫人の時代」は終わりを告げた。彼女は1691年ヴェルサイユを去ってサン・ジョセフ修道院に入り、16年後の1707年に66歳で死去した。

 ところで、1668年から1678年までの10年間は大庭園と新館の造営という点で、ヴェルサイユの歴史で最も変化の著しい時期だったが、モンテスパン夫人はこの10年間、ルイ14世の心をしっかりとらえて離さなかった。トリアノン宮殿(グラン・トリアノン)は、ルイ14世がモンテスパン夫人とのプライヴェートの生活のために造営された。また、ヴェルサイユの歴史において最大のイヴェントとされる1674年の大祝典では、5日間にわたって演劇やオペラ、コメディ・バレエなどのスペクタクルが上演された(しかも、上演されたのはモリエール、リュリ、ラシーヌなど生気を代表する作品)が、この祭典はモンテスパン夫人に捧げられた。ヴェルサイユがヴェルサイユとなったのはモンテスパン夫人のおかげといえなくもない。

 モンテスパン夫人にかわって最後にルイ14世の心を射止めたのはマントノン夫人フランソワーズ・ドービニェ。その魅力はフランソワーズ・シャンデルナゴール『無冠の王妃マントノン夫人―ルイ十四世正室の回想〈上〉〈下〉』(中公文庫BIBLIO)に詳しいが、その出生から驚かされる。生まれた場所は監獄なのだ。ポワティエ地方の二オール監獄に投獄されていた父親コンスタン・ドービニェと看守の娘ジャンヌ・ド・カルディヤックの間に生まれた。この時代、監獄の中での行動は比較的自由で、囚人や容疑者は妻や恋人を呼び寄せて監獄内でセックスすることは可能だった。

 1639年に父コンスタンは釈放された後、家族と一緒にマルティニーク島へ向かい、12歳まで過ごす。帰国後すぐに両親を亡くし孤児となる。16歳のとき 25歳年長の詩人スカロンと結婚。彼女は、詩人の夫を介してサロンに出入りし、セヴィニェ夫人、ラ・ファイエット夫人、スキュデリ嬢と知り合い、上流社会に足を踏み入れた。モンテスパン夫人と知り合ったのもこのサロンのおかげだった。

 1660年10月7日にスカロンが亡くなり、フランソワーズは24歳の未亡人として無一文で残されたが、彼女には人脈という貴重な財産があった。若き未亡人に恋した王侯貴族たちから差し出された救いの手を巧みに操って、社交界の中を遊泳していく。そして1669年、モンテスパン夫人の要請で、ルイ14世との間に生まれた女の子(ルイーズ)の養育係の職につく(翌1670年には、モンテスパン夫人は男の子も生む。後のメーヌ公)。フランソワーズは、育児には関心のない女主人モンテスパン夫人に代わって誠心誠意子どもたちの世話をした。

グラン・トリアノン

グラン・トリアノン  右上がヴェルサイユ宮殿

1669ファン・デル・メーレン「ヴェルサイユ宮殿の建設」

1674年大祝典 第一日目の7月4日 「大理石の前庭」で、リュリ作曲、フィリップ・キノー作のオペラ『アルセスト』上演

1674年大祝典   大運河と花火

スカロン夫人フランソワーズ・ドービニェ(後のマントノン夫人)

ポール・スカロン  詩人。劇作家。

 重症のリューマチで、体もねじ曲がっていたが、高い教養の持ち主だった。 

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