「ヴェルサイユ宮殿・庭園とルイ14世」8 公妾モンテスパン夫人②

 「フランスには三人の王妃がいるのさ」

 ルイ14世はふたりの愛妾(ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールとモンテスパン夫人)のどちらも失いたくなかった。そのため国王は、王妃とふたりの愛妾にとりかこまれて暮らすようになったのだ。1669年3月、モンテスパン夫人は待望の国王の子どもを生む。しかも男子だった。その翌年3月には二番目の男子を生む。国王のモンテスパン夫人への愛はますます深くなる。自信を持った夫人は、ルイーズいじめに力を入れる。精神的苦痛に耐えられなくなったルイーズは、ひそかに宮廷を離れ、シャイヨーにあったマグダラのマリアに捧げられた修道院へ向かうが引き戻される。

 その後もモンテスパン夫人のいじめは続く。1673年12月18日、疲れ果てたルイーズは、もう二度と宮廷に戻ることはないと決意し、フォーブール・サン・ジャックの戒律が厳しいことで有名なカルメル会修道院に入る。このときまだわずか30歳。正式に修道女になって得た名前はスール・ルイーズ・ド・ラ・ミゼリコルド。死ぬまでの36年間、その修道院を出ることはなかった。

 ルイーズが修道院に去り、宮廷はモンテスパン夫人の独壇場となる。外国からの使節はモンテスパン夫人を王妃と取り違えた。夫人はルイーズとは対照的に、宝石で飾り立て、金糸銀糸のドレスをまとい、万事に派手で奢り高ぶった印象を与え、敵も多かった。モンテスパン夫人がもっとも恐れたのは、国王が自分の侍女に心を奪われるかもしれないということ。そのため自分の侍女は、容姿が劣る女性だけを選んでいた。しかし、さすがに、他人の侍女の選択には口出しできない。モンテスパン夫人が心配した通り、国王は王弟の二番目(アンリエット・ダングルテールは1670年死去)の妃リーゼロッテ(エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール)の侍女に心をひかれるようになる。

 灰色の目が魅力的で、輝くようなブロンド髪の美しいその侍女とはフォンタンジュ嬢。侍女になった翌年の1679年春先には、しっかりと国王の心を捉えた。1680年1月に国王の子どもを生むと、公爵夫人の称号までもらう。侯爵夫人でしかないモンテスパン夫人は目をむいて悔しがった。しかも、恋敵はおせじにも利口な女ではなかった。

「彼女は、顔は天使のように美しかったが、頭はザルのように空っぽだった」(ラ・ベ・ド・ショワズィ)

 嫉妬に狂ったモンテスパン夫人は再び魔術師ラ・ヴォワザンに近づく。モンテスパン夫人が密かに毒薬を入手しているという噂が流れた。フォンタンジュ嬢が、痩せ衰え日ましに身体の不調を訴え出したのも、その頃からだった。彼女は20歳の春を待たずして死んだ。モンテスパン夫人が毒殺したという噂が駆け巡った。1679年3月12日、警視総監ラ・レニーはラ・ヴォワザンを逮捕し、その顧客リストを押収する。捜査の結果判明したのは戦慄すべき事実だった。ラ・ヴォワザンの顧客には、モンテスパン夫人のほか、ルイ14世の初体験の女性と目されるソワソン伯爵夫人オランプ・マンシーニ(マザランの姪)など多数の貴族がいるばかりか、彼女たちは願いをかなえるために積極的に黒ミサに参加していたというのだ。ラ・ヴォワザンの家の裏庭からは、2千とも3千ともいわれる嬰児の遺体も発見された。堕胎、捨て子、あるいは、嬰児の生き血を必要とした黒ミサ用に、貧しい両親たちが売った赤ん坊の亡骸だった。

 宮廷を巻き込んだ大スキャンダル。ラ・ヴォワザンは革命広場(現在のコンコルド広場)で火刑に処せられ、ソワソン伯爵夫人は国外の逃亡した(彼女の五男がオーストリアにわたり軍人として大活躍するウジェーヌ=プリンツ・オイゲン公)。ラ・ヴォワザンの娘マルグリットは、母親の処刑に際し救いの手を差しのべなかったモンテスパン夫人を憎み、警察の調べに対してモンテスパン夫人が母親の大切な顧客であったこと、夫人の館に何度も媚薬を届けたこと、しばしば夫人のために黒ミサをあげたことなどを証言した。

 ルイ14世は窮地に立たされた。ルイの愛人が毒薬使いであったなどという噂がヨーロッパ中に知れたら、フランスの権威は地に落ちる。ルイはどうしたか?

海外ドラマ「ベルサイユ」ルイ14世とモンテスパン夫人

1677ピエール・マニャール工房「モンテスパン夫人と4人の子供たち」ヴェルサイユ宮殿

修道女となったルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール

「フォンタンジュ公爵夫人」ビュッシー・ラビュタン城

ピエール・ミニャール「オランプ・マンシーニ」

火刑に処せられるラ・ヴォワザン

0コメント

  • 1000 / 1000