「ヴェルサイユ宮殿・庭園とルイ14世」6 公妾ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール②

 幼い時からルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールとともに育ったラ・ベ・ド・ショワズィは、その『回想録』の中で、ルイーズを次のように描いている。

「そして優しさ、その美貌にまさる優しさ、というラ・フォンテーヌの詩は、彼女のために書かれたものと思われる。彼女は美しい肌の色、ブロンド髪で、眼は青く、瞳は優しさに溢れていると同時にひどく控え目で、人の心を捉え、そしてだれからも愛された。エスプリに欠けたが、日毎、読書を欠かさずに磨きをかけていた。まったく野心ももくろみもなかった。」

 王弟妃アンリエットが、ルイとの恋のカモフラージュのために選んだルイーズだが、彼女を見つめる時のルイの視線が日に日に熱をおびてくる。ルイは、夜の散歩にも、ルイーズしか誘わなくなる。1661年11月1日、王妃が王太子を出産。王太子誕生を祝って、シャルトルへの巡礼がおこなわれ、ルイと共に王妃も加わった。シャルトルへの道中、夫ルイは王妃に対してこの上ない優しさを示した。片時も王妃の傍らを離れず、王妃にはよく聞き取れなかったが、冗談を言って、一生懸命に王妃を楽しませようとした。それでも、巡礼が終わってパリに戻るやいなや、ルイはルーズのもとへと走った。

 そしてルイーズへの想いが、ルイをヴェルサイユ造営に駆り立てる。彼女を喜ばせるために、母屋二階部分のテラスと庭園の改造が計画されたのだ。それらは、約3年の歳月を要して1664年春に完成にこぎつけた。ルイ14世は、5月7日から13日まで、多数の招待客を招いて完成記念祝典を開いた。これが有名な《魔法の島の悦楽》。表向きは二人の王妃、母后とマリー・テレーズに捧げるとされていたが、国王の愛人となったルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールに捧げる祭典であることは皆が承知していた。野外舞台には数千の蝋燭が灯され、それだけでも絵のように美しい。その幻想的な舞台に、着飾ったブルゴーニュ座とモリエール座の俳優たちが、顔見世興行さながらに豪華な衣装で登場した。芝居の合間には花火が打ち上げられ、噴水は勢いよく水を噴き上げ、ヴェネツィアからアルプスを越えて到着した金箔で塗られたゴンドラは楽士を乗せて運河を滑った。

 1666年1月20日、母后アンヌ・ドートリッシュが突然病に倒れ、帰らぬ人となる。この母后の死をきっかけに、ルイ14世はルイーズを公式の席に連れ出すことを決意。王妃と並んでミサや儀式に参列するルイーズの姿が目撃されるようになった。

「ルイ14世は身内の間でも神の前でもすでにかなりの自信を持ち始めていたから、自らの色恋沙汰も公表してはどうかとと考え始めた。わが栄光をわが手で演出しようとする演出家として、彼は力づくでこの試みに成功した。つまり寵姫たちを王権下の階級制の中にくり入れることにしたのだ」(アラン・ドゥコー『フランス女性の歴史 ルイ14世治下の女たち』)

 ルイとルイーズの親密な関係は約8年続き、その間に彼女は5人の子供を出産し、3人の子供を失った。1665年からは続けざまに3人の子供を身ごもり、精力絶倫のルイ14世の相手を務めることができなくなっていたが、これを絶好のチャンスと見て、執拗に王のあとを追い、王の視線を自分に向けようと躍起になっている女性がいた。王妃の侍女モンテスパン夫人である。宮廷デビューは、アンリエット・ダングルテールの侍女としてだったが、その頃からあらゆる機会を捉えて国王の目に止まるように気を配っていたが、そのときのルイの目には、ルイーズの姿しか映らなかった。彼女が国王の心を得るには、あと5年を要する。

 モンテスパン夫人は1663年、ガスコーニュのモンテスパン侯爵と結婚し、二人の子どもをもうけるが、玉の輿だったはずのこの結婚は、夫に隠れた借金があったため、悲惨な結果に終わり、モンテスパン夫人は再び運試しをすべく宮廷に舞い戻る。そして、ルイ14世の愛を勝ち取るために媚薬にまで手を出す。入手先は女魔術師ラ・ヴォワザン。

1664年「魅惑の島の悦楽」花火

1664年「魅惑の島の悦楽」1日目

1664年「魅惑の島の悦楽」2日目

ヴェルサイユ宮殿庭園側ファサード 1675年頃

 建物中央にテラスがあった。「鏡の間」建造時に壊される。

ヴェルサイユ宮殿庭園側ファサード 現在

ジャン・ノクレ「ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール」 ヴェルサイユ宮殿

クロード・ルフェーヴル「ディアナに扮したルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール」ヴェルサイユ宮殿

ルイーズ・アデレード・デスノス「王妃に許しを請うルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール」

ピエール・ミニャール派「ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールと子どもたち」 ヴェルサイユ宮殿

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