「ヴェルサイユ宮殿・庭園とルイ14世」3 エチケット
ルイ14世の目標はフランス貴族の最高の人士を意のままに操縦すること。そのためには、単に彼らをヴェルサイユに強制移住させるだけでは十分ではなかった。貴族たちに過ぎし日を想うゆとりをあたえず、職務に専念させる必要があった。そのために彼らに課せられたのが、苛酷なばかりの厳しい「エチケット」(宮廷のしきたり。階層秩序、役割分担、所作や儀式のしきたりなどの宮廷の規則)の励行。ルイはエチケットの創始者ではない。エチケットは、1570年代に、その当時ヨーロッパ中の宮廷に影響を及ぼしていた地中海風社交の規範にならって、アンリ3世によって課されたものである。アンリ4世とルイ13世は無頓着と気さくさから、あるいは無関心と内気さからエチケットを重視しなかった。
それに反して、ルイ14世は1660年代以降、自ら進んでこのシステムに傾倒しはじめ、エチケットをドグマ化した。彼は、新しい規則を考え出すこと、礼儀作法を複雑にすること、人びとをその職務や役割、その場にふさわしい立ち居振る舞いでがんじがらめにした。そこに政権を揺るぎないものにする利点を見てとり、儀式、取り決め、習慣を自分の取り巻きに課した。自らもエチケットに同化せしめ、気晴らしや不謹慎な放縦まで自己から追放した。1682年以後、エチケットがすべてを規制し、それは色恋沙汰にまで及んだ。完璧な廷臣であるためには、エチケットを知り、しかも教理問答のように反復して学習しなければならなかった。
日常生活のごくありふれた挙止や動作までが、細かく規制され、各人に能動的に順守すべき義務が課せられた。ふとした失策や失態すらが嘲笑の対象にされ、いつまでも宮廷の話題にされる。が、廷臣間の位階や勲等や序列の問題、上下の進退ともなれば、また別の感情をうながす。総じて廷臣に限らず、全フランス人が官位や特典には異常に執着する傾向を有する(ナポレオンが「レジオン・ド・ヌール勲章」を創設したのもここに由来する)。ヴェルサイユ宮でも、位階の争奪は激越な暗闘を誘わずにはいなかった。
廷臣にとり、まもるべきこと、少なくとも守ろうと心がけるべき第一の義務は、つねに陛下の御前に侍り、自己の場を決して離れぬことである。たとえ前夜に遅く就寝しようと、朝まだき床のなかで愚図ぐずしてはいられない。王の朝の引見に参列すべき特権者は、午前7時半には既定の場に詰めていなければならない。毎回身なりを整え、礼装をただし、略綬(りゃくじゅ。勲章・記章の受章者がそれらを佩用しないときに受章歴を示すために着用する綬=リボン)勲章をつけて並ぶからには、かなり早くから準備が必要である。美男の誉れ高いビュシーは、従姉のセヴィニエ侯爵に宛ててこう記している。
「朝は国王のもとにいて、それから枢機卿猊下のアパルトマンへ。誰にも気づかれぬように、敏捷に動きます。その後ル・テリエ邸。ときにはチュレンヌ元帥宅にまわります。これがこの冬の日課でした。毎年の冬とさして変哲もありません。」
わずか数時間に4軒もの歴訪を重ねるほど、宮仕えは気ぜわしく、かつ多忙でもあったのである。王が礼拝堂に足を運ぶと、並みいる廷臣も急いで後を追う。そして席に着いても、彼らの視線は王の姿から離れない。自ずと首がその方を向く。
「国家のお偉方(えらがた)が毎日一定の時間、彼らの教会と呼ぶ寺院に集合する。この寺院の奥には、彼らの神が捧げられる祭壇がある。祭壇には彼らが神聖視した、厳粛でいかつい儀式を執行する著名な司祭が立つ。お偉方は祭壇の下に広い輪を形づくる。彼らは起立したまま、背を不様にも司祭と聖なる儀式に向け、顔を挙げて王の方に向けているかに見える。国王は特別席で恭しく跪いているのに、お偉方は全身全霊で国王を盗み見している。この習性はどこかに腐敗の翳りか、隷従が感じられはしないか。なぜなら王が神に礼拝しているのに、お偉方は王を礼拝しているのだから」(ラ・ブリュイエール『人さまざま』)
ラ・ブリュイエールの指摘通り、貴族はもはや王の機嫌をうかがい、彼にへつらう以外に途を知らなかったのである。
「王の寝室」ヴェルサイユ宮殿
ヴェルサイユ宮殿礼拝堂
ピエール・ミニャール「アウグスブルク同盟戦争の頃のルイ14世」ヴェルサイユ宮殿
1661ル・ブラン「ルイ14世の肖像」
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