「ヴェルサイユ宮殿・庭園とルイ14世」2 トラウマ

 徳川政権にとって、天下泰平の世を継続する上で大名統制がキーだったように、ルイ14世にとって貴族支配こそ中央集権国家、強力な軍事大国を実現する上で最重要課題だった。そこにはトラウマと言っていい強烈な幼児体験が存在した。16世紀後半の「ユグノー戦争」と1789年の「大革命」に次ぐフランス史上の一大事件「フロンドの乱」だ(フロンドfrondeとは、当時青少年に流行した石投げ器のことで、それをもじって名づけられたといわれる)。1648年から53年にかけて,パリを中心にほぼ全国的に展開されたフランスの内戦。17世紀前半,枢機卿リシュリューが進めていた中央集権化政策路線はマザランに受け継がれたが,それは長期化する三十年戦争のさなかに進行したため,高等法院を中心拠点とする旧官僚(官職保有者)や伝統的な旧貴族(帯剣貴族),そして中央に対する地方勢力と,さらに生存の危機に直面した民衆にいたるまでの社会各層,諸団体の反発を招いた。

 フロンドの乱は、ルイ14世が9歳から14歳の時期にあたる。当然、彼の人格や性格、思考や好みに多大な影響を及ぼした。

「フロンドの乱はこの王子の感受性に強い影響を与えたばかりではない。それは彼の精神を形成し、性格を造形したのである。・・・この動乱の時代が他のどんな経験にも増して、ルイの知性、理性、記憶、そして意志を発達させ、その仕上げをしたのだということを」(フランソワ・ブリュシュ『ルイ14世』)

 5年間にわたってフランスを無政府状態に陥れたフロンドの乱。乱の勃発時(1648年8月26日~27日「バリケードの日」)、暴徒と化し一部の民衆が9歳のルイ14世の部屋に侵入する事件が起きた。ルイ14世は寝たふりをして難を逃れたと伝えられる。また翌年1月5日、パリの民衆がルーヴル宮を包囲する中、安全な場所へ避難するためにマザランと母后は9歳のルイ14世を連れてパリを脱出(ルイはベッドからシーツでくるまれ、荷物のように馬車に放り込まれ辛うじて宮殿から脱出して難を逃れたとされる)してサン・ジェルマン・アン・レー宮に向かう。そしてその後もフランス各地を転々とさせられる、5年にわたって。 こうした体験が大きなトラウマとなりルイ14世にパリを捨ててヴェルサイユ遷都を決意させ、財政難の中で莫大な資金を投入してのヴェルサイユ宮殿大造営に至ったのである。

 ヴェルサイユは、パリ西南の小村。小さな丘で、その周りは沼地をなし、鷹狩の獲物の多い林が連なっているところで、父王ルイ13世が狩りを楽しんだところである。ルイ13世は狩りの休息のために、そこに小さな別荘を建てた。ただしそれは、「ただの貴族でもひけらかそうとは思わない、貧弱なつくりの別荘」(バソンピエール元帥)。ルイ14世はここに完成までおよそ25年を要した大王宮を建設するのだが、この地はそのためには必ずしも適当なところではなかった。

「あらゆる場所のなかで、もっともさびしく、もっともやせて貧弱な土地、見晴らしも悪く、木立ちもなく水もなく土もない。すべては砂地か沼地で、空気も悪く、何もよいものはない。」

(サン・シモン『回想録』)

 ルイは大王宮を既存の宮殿を改造・美化することで実現しようとは考えなかったのか?実際マザランの後継者コルベールは、ルーヴル宮の改修・美化が望ましいとの意見だった。しかし、ルイはルーヴル宮を嫌った。パリ市中にあり、敵の侵入が容易なうえ宗教戦争の傷跡もなまなましい。そして何と言っても「フロンドの乱」の苦い思い出と重なる。また、シャンボール城はパリから180kmと離れすぎ。ではパリからさほど離れていないサン・ジェルマン・アン・レー宮やフォンテーヌブロー宮はなぜ候補にならなかったのか?サン・ジェルマン・アン・レー宮の創設者はルイ9世(在位1108年-1137年)、フォンテーヌブロー宮の創設者はフランソワ1世(在位1515年-1547年)。それぞれカペー朝、ヴァロワ朝の王なのだ。ルイはブルボン家生え抜きの城をつくりたかったのだ。

ピエール・パテル「ヴェルサイユ宮殿 1668年頃」ヴェルサイユ宮殿

ピエール・ミニャール「マザラン」コンデ美術館

アンリ・テストラン「ルイ14世」1648 ヴェルサイユ宮殿

アンリ・テストラン「ルイ14世」1648 ヴェルサイユ宮殿

ジャン・ノクレ「パリに凱旋するルイ14世」ヴェルサイユ宮殿


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