「ヴェルサイユ宮殿・庭園とルイ14世」1 大貴族の飼い慣らし

 「移動式の宮廷」ヴェルサイユ宮殿というのがフランス王家の伝統だった。国王の赴くところすべてに王家、王族の人々、政府要人、侍従、主治医、料理人、そして愛人までがついていく。16世紀においても、フランス宮廷はいまだ定住地を持たず、よい季節の時にはイル・ド・フランス地方やロワール河沿いにある城館を転々としていた。その旅行は経済的な面から強いられてもいた。この一団を維持する多大な出費は、居住したそれぞれの城館の収入で賄われた。その場所が選ばれたのは、王国の中心に位置していたからと、直接的に王の直轄地だったからである。パリにある古い「ルーヴル宮」の建物での王の滞在は、冬の何か月かと、たまたま起こる政治の緊急時などに限られていた。ルーヴル宮を西方に引き延ばした「テュイルリー宮」の建設は、アンリ四世時代に完成され、パリでの滞在をより快適に、より持続的なものにしたが、それでも代々の王は、居館を転々とする習慣を改めなかった。節約と季節を楽しむという理由からである。

 ルイ十四世も若い頃はこのしきたりに従い、最も頻繁に滞在したのは「フォンテーヌブロー宮」と「サン・ジェルマン(・アン・レー)宮」であった。1661年の秋以降、王はヴェルサイユの建設工事を試みたが、それはますます大がかりなものとなった。ただし宮廷がそこに最終的に落ち着くのは1682年5月である。その日を境に王はそこに居を定め、自分の新しい宮殿を離れるのは、マルリーやフォンテーヌブローへの短期の旅行の時だけだった。国王が国民の方に向かって姿を見せるのではなく、国王自身が動かず国民が近寄って来るのを待つのである。原則として誰でもヴェルサイユ宮を見物することができる。訪問者は必ずや建物の内部の豪華さ、調度品の贅沢さ、庭園の広大さに目がくらむ。その中心は「鏡の間」で、ルイ十四世は、外国から使節団がやってくるたびに、この「鏡の間」を通って謁見に望むようにした。

「ここ[鏡の間]で催された豪奢なレセプションを正しく思い起こすには、この大歩廊が純銀の調度類で飾られ、小さなオレンジの木を植えた鉢、テーブル、燭台、コンソールなどがあって、床にはサヴォヌリー工房製の大絨毯が敷き詰められ、窓には王の組み合わせ文字の入った金の縁取りのあるダマスカス織の白い大きなカーテンが下がっていた、といったことを想像しなければならない。いろいろな種類の大理石の壁には、夜になると、光が均等に与えられるように円天井から吊り下げられて、鏡に反射して何倍にも明るさを増す、54個のシャンデリアと、32個の燭台に置かれた飾り蝋燭の束と、一つひとつの銀の燭台に150本の蠟燭が輝く8個の光のピラミッドによって照らし出されていた。

 『ディアナの間』の玄関ホールから入り、『国王謁見の間』を経て、『鏡の間』を通り『平和の間』の壇上にしつらえられた玉座にいたるには、10分もかかる長い行程であった。使節たちは、居並ぶ大勢の貴人のあいだを、贅を尽くした衣装と宝石で身を飾る廷臣、たちのあいだを、品定めするような視線を浴びながら静々と進み、玉座までの道程をたどらなければならなかった。彼らはどんなに場慣れしている者でも一瞬気後れし、光の洪水の絢爛たる光景に戸惑いながら玉座の前にたどり着き、そして、王族に囲まれて1200万リーヴルのダイヤモンドがきらめく見事な衣装を纏い、自分たちが来るのをじっと立って待っている、君主の泰然たる威厳に圧倒されたであろう」(リュック・ブノワ『ヴェルサイユの歴史』)

こうして諸外国の使節らは、ここに住む主人の偉大さに思わず平身低頭しないではいられない。しかし、ルイ十四世がヴェルサイユ宮を統治の手段として機能させたのは、まず第一に大貴族たちに対してなのだ。地方総督のポストを持つ大貴族の場合、任地には代理人を置き、当人はヴェルサイユ宮に住む。そうなると、王権に不満を抱いても任地での保護―被保護関係のネットワークを利用しての挙兵は無理だ。また、国王を真似た華美な生活を送ることになるから、絶えず金欠病に悩むことになる。そこで大貴族同士が、国王の寵愛を求めて服従を競い合うことになる。こうしてヴェルサイユ宮は、大貴族を飼い慣らす格好の場となるのである。

「鏡の間」 夜

ヴェルサイユ宮殿「鏡の間」

「ジェノヴァ総督一行を謁見するルイ14世 1685年」ヴェルサイユ宮殿

ヴェルサイユ宮殿

クロード・ルフェーヴル「ルイ14世」ニューオリンズ美術館

サン・ジェルマン・アン・レー城

フォンテーヌブロー宮殿

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