「いざ吉原へ」16 遊女(4)「苦界十年」③

 遊女が真に惚れた男が情男(いろ)。間夫(まぶ)ともいった。多くの男に身を任せなければならない境遇だけに、遊女は真の恋愛にあこがれていた。

「客に身体は許しても心は許さない。心を許すのは情男だけ」

 情男との逢瀬のたのしみがあればこそ、遊女は嫌な客も我慢できたし、苦界にも耐えられたといえる。

      「間夫は勤めの憂さ晴らし」

 情男は遊女の心のささえであり、生きがいでもあった。そのあたりの事情は妓楼も理解していたから、ある程度は大目に見ていたが、遊女が情男に夢中になり、他の客をおろそかにするようになると、情男の登楼を禁止し、遣手や若い者が遊女を監視した。それでも、遊女たちの中には、駆落ちを決行する者もあった。

 しかし、遊女が吉原から逃げ出すのは困難だった。周囲を高い塀とお歯黒どぶに囲まれ、唯一の出口である大門では四郎兵衛会所のあらためがある。塀を乗り越えるか、男装して大門を抜け出すかだが、成功する例はほとんどなかった。もし脱出できても、妓楼はすぐに追っ手を派遣し、草の根を分けても探し出した。

 駆落ち・心中事件でもっとも有名なのが、四千石の旗本藤枝外記(げき)と、京町二丁目の大菱屋の遊女綾絹(あやぎぬ)の「藤枝心中」。

  端唄「君と寢やるか、五千石とろか。なんの五千石、君と寢よ」(太田南畝 実際は四千石)

外記は綾絹に夢中だったが、富裕な町人が身請けしようとしているのを知った。金では対抗できないため、自暴自棄になった外記は綾絹をひそかに吉原から連れ出した。しかし、すぐに発覚して追手が迫る。絶望した外記は刀で綾絹を刺し殺した後、自害した。時に天明五年(1785)八月十三日。外記二十八歳、綾絹十九歳だった。外記には十九歳の妻がいた。事件後、藤枝家は改易となった。

 まだ年季が明けないうちに吉原を抜け出す方策として、「身請け」があった。客が金を出して年季証文を買い取り、遊女の身柄をもらい受けるのである。安永四年(1775)に、当時全盛の松葉屋の瀬川が千四百両(一両=10万円として1億4千万円)で盲目の高利貸烏山検校(からすやまけんぎょう)に身請けされたのは極端にしても、身請けには莫大な金がかかった。妓楼に支払う身代金のほかに、朋輩や妹分の遊女、妓楼の奉公人一同、引手茶屋、幇間、芸者などに挨拶をし、金品を贈らなければならない。盛大な送別宴も客の負担である。

 身請けという僥倖(もちろん望まない身請け話もあった)を得るのは才色兼備で幸運にも恵まれた、ごく一握りの遊女である。多くの遊女は指折り数えて、ひたすら年季明けを待つしかなかった。しかし、年季が明けたあと素人の女に戻り、裏長屋に住む庶民の女房になろうとしてもかなり困難だった。とくに禿から妓楼で生活してきた女は吉原の外の世界のことをほとんど知らなかったからである。炊事洗濯裁縫などの家事はまったくできないし、世間の常識もなかった。裕福な町人の妻や妾に迎えられた場合は、妾宅(しょうたく)に住み、女中や下男、下女が家事全般をやってくれるため、元遊女でもやっていけたが。

 実家に戻る遊女も少なかった。かつて親孝行をしたはずの女であるが、素人になったからといって、こころよく受け入れる実家はほとんどなかった。 そのため、幇間や、河岸見世の楼主、小料理屋の亭主など、妓楼に関係する男と所帯を持つ女が多かった。所帯を持とうという男もいないために、吉原の中の河岸見世や、吉原の外の岡場所などに流れて行く女も多かった。生活の手段としては、体を売るしかなかったのだ。いったん苦界に沈んだ女の多くは、遊女の暮らしが死ぬまで続いた。

     「生れては苦界死しては浄閑寺」

 吉原の遊女は死亡すると菰(こも)に包まれ、投込寺(なげこみでら)と称される三ノ輪の浄土宗浄閑寺(じょうかんじ)に運ばれ、墓地の穴に文字通り投げ込まれて終わりだった。浄閑寺ほど有名ではないが、浄土宗の西方寺(さいほうじ)も投込寺である。主として妓楼の奉公人が葬られた。

『大晦日曙草子』逃亡した遊女と男が追手に捕まったところ。

絵師:鳥居清長, 作者:山東京伝『九替十年色地獄 (くがいじゅうねん いろじごく)』

 小刀を持った遣手に追いかけられる遊女。これも折檻のひとつ。

歌麿「今様邯鄲」御殿女中が駕籠を仕立てて迎えに来る大名の身請けを夢見る扇屋抱えの花扇

『浄閑寺』「新吉原総霊塔」

 2万5000名以上の遊女たちを供養している

『江戸切絵図』「今戸箕輪浅草絵図」部分 浄閑寺と西方寺は日本堤の両端近くにあった2

国貞「月の陰忍逢ふ夜 行燈」

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