「イギリス産業革命と紅茶文化」8 砂糖植民地と奴隷制

 砂糖入り紅茶は、イギリスの近代史を非人道的かつ残酷なものにした。イギリスは1640年代後半までは砂糖をあまり重視しなかったが、ヨーロッパや本国における砂糖の需要と収益性増大によって、1627年に獲得したバルバドス島を砂糖植民地として開発。新しい栽培技術と改良製糖法の導入によって急速に成長する。サトウキビ栽培には高額の資本と熱帯下の過酷な労働に耐える黒人奴隷を必要とした。しかも連作による土地の疲弊、その結果としての生産力の停滞・低下と闘わねばならなかった。こうして砂糖生産の中心地は、バルバドスから始まってジャマイカ、フランス領サン・ドマング(ハイチ)、18世紀中頃のスペイン領キューバへと移動してゆく。

 ところで、砂糖プランテーション経営の最大の問題は、奴隷労働をいかに確保するかにかかっていた。というのは、サトウキビ栽培の方法は原始的で、圧倒的に肉体労働に依拠していたからで、プランターは土地を耕すにも牛・馬を用いず、ただ奴隷のみを使用したという状態であった。黒人奴隷がいなければ、プランテーションは存立できなかった。こうして砂糖経済の発展は、黒人奴隷の人口増加に依存していた。そのため、年々増加を続ける黒人奴隷の需要に応じて、それに応じられるだけの奴隷をアフリカ西岸で確保することが、プランターにとっても、イギリスの国益にとっても最大の要となった。そのためにイギリスは1663年、王立アフリカ冒険商人会社を設立し、やがて1672年にはこれに代わるものとして王立アフリカ会社を創立、驚くべきことに王室自身がこの非人道的な奴隷貿易を保護し参加したのである。奴隷を手に入れるためには、タバコ、銃、ラム酒などをもってゆくことが必要であった。やがて東インド会社が輸入したインド・キャラコが、奴隷取引の目玉商品になるが、ともかく当時「黒い象牙」と称された黒人奴隷たちが、一片の綿布やタバコ、ラム酒と交換されて、アフリカ西岸から続々と西インド諸島へ運ばれたのである。王立アフリカ会社が1672年から1711年の間に供給した奴隷の数はおよそ9万人に達した。そのうち約半数がバルバドスへ、3分の1以上がジャマイカに送られた。いずれも砂糖プランテーションの労働力であった。

 バルバドスにおける砂糖生産は17世紀末にかけ、大量の奴隷労働力の供給を得て飛躍的に伸び、17世紀末にはごく少量のブラジル糖を除き、事実上国内市場はイギリス植民地の砂糖で充たされた。それにつれて、砂糖の価格も下落の一途をたどった。

 アフリカ西海岸における奴隷貿易と西インドの奴隷制砂糖植民地、そしてイギリス本国との結合は、いわゆる「三角貿易」の名で知られている。この三角貿易によって、イギリス本国の輸出は増え、本国における経済発展が促進された。エリック・ウィリアムズによれば、イギリスはこの大西洋三角貿易によって莫大な利潤を獲得、この資本を基盤として産業革命が開始されたという。奴隷貿易で富を獲得したリヴァプールのような港湾都市の後背地として、マンチェスターのような工業都市が誕生したのも、こうした因果関係による。この「ウィリアム・テーゼ」については、その数値的な正確さなどの信憑性に疑問が投げかけられることもあったが、最新の研究であるジョゼフ・イニコーリの『アフリカ人と英国産業革命』(2002年)は、奴隷貿易を中心とした大西洋経済が、やはりイギリスの経済発展において重要な役割を果たしたことを指摘している。

 いずれにせよ、飲茶に欠かせなかった砂糖は最初のうちは高価な贅沢品であったが、18世紀中頃には、誰もが容易に手に入れることができる大衆化された商品になっていた。18世紀に活躍したあるイギリス人の歴史家は次のように言っている。

「われわれイギリス人は、世界の商業・金融上、きわめて有利な地位にいるために、地球の東の端から持ち込まれた茶に、西の端のカリブ海からもたらされる砂糖を入れて飲むとしても(それぞれに船賃も保険料もかかるのだが)、なお、国産のビールより安上がりになっているのだ」

エリック・ウィリアムズは、『資本主義と奴隷制』(1944年)で、従来イギリスにおける資本主義成立の要因として挙げられていた内因論(イギリスのヨーマンによる独自の資本蓄積によるとする)を批判し、外因論(カリブ海の黒人奴隷の重労働と大西洋三角貿易による重商主義的過程によって蓄積された資本による)的見解を提示。カリブ海にある島国トリニダード・トバゴ共和国の政治家・初代首相。国家への多大な貢献から「トリニダードの父」と呼ばれている。

リチャード・コリンズ「3人家族のお茶」1727年  上流階級のお茶の時間

 テーブルの上の立派なティー・セットを誇示していると同時に、把手のないカップのいろいろな持ち方を見せている。

リチャード・コリンズ「ティー・パーティー」1727年

フィリップ・メルシエ「ティー・トレイを運ぶ若い女性」1740年代

ウィリアム・ホガース「ストロード家」1738年頃

0コメント

  • 1000 / 1000