「イギリス産業革命と紅茶文化」7 紅茶+砂糖

 われわれが緑茶を飲むとき砂糖もミルクも入れないが、大多数のイギリス人はどちらも入れる。なぜ紅茶に砂糖とミルクを入れるようになったのか?

 茶にミルクを入れて飲む方法は、すでに蒙古当たりではふつうの飲み方であったから、イギリス人が開発した独特の飲み方とはいえない。しかし、砂糖入り紅茶はイギリスで誕生した。そしてそれは「ステイタス・シンボル」として生まれた。17世紀のはじめごろ、砂糖も茶も薬屋で扱われる貴重な「薬品」だった。したがって、病気でもないのにそんなものを用いるのは、貴族やジェントルマンといった高貴な身分の証のためか、大金持ちの貿易商人などが、見栄を張ってのことでしかなかった。そして、茶と砂糖という二つのステイタス・シンボルを重ねることで、砂糖入り紅茶は非のうちどころのないステイタス・シンボルとなったのだ。

 しかし、砂糖入り紅茶は、いつまでも貴族やジェントルマン、上流市民の独占物ではなかった。コーヒー・ハウスを中心に、17世紀中ごろ以後、その消費はどんどんひろがり、たちまち中流の国民にまで普及。さらに時間がたつと、やがてそれは民衆の間にまで広がり、「国民的飲料」といわれるほどになっていく。19世紀になると、刑務所の囚人にも紅茶が出されるようになる。その結果、ついには、イギリスでは茶は葉っぱ一枚も採れないのに、紅茶といえばイギリスやイギリス人が思い浮かぶようになるのである。

 なぜ、砂糖入り紅茶はイギリスでそこまで普及したのか?ひとつには、イギリス国民の特徴だと言われる「スノッブ」(上流気取り)が関係しているようだ。エリザベス1世を継いでイングランド王となったジェームズ1世は、17世紀の初めに身分によって消費生活を規制する法律を全廃した。そのため、そのころから豊かになってきた商人たちは、自分たちの財力を誇るために、アジアやアメリカ、アフリカなどから輸入される珍しい「舶来品」を競って使うようになる。17世紀のイギリスの料理で、ありとあらゆる種類の香料を振りかけるのが大流行したのも、香料が同じ重さの銀と同じくらいの値段だといわれたからこそで、紅茶に砂糖を入れたのも同様の理由からだった。

 しかし、砂糖入り紅茶が一般に普及したより重要な理由は、茶や砂糖の値段が低下したからだ。それには、ピューリタン革命(1642~49年)によって権力を握ったクロムウェルの政策が関係する。クロムウェルは1651年、貿易商の要求を入れて「航海法」を制定し、最大のライバルだったオランダとの貿易競争で優位に立とうとした。イギリスへの輸入を自国船か生産国の船に限定することで、中継貿易に依存しているオランダに打撃を与えることをねらったのだ。この法律は、以後、しばしば補充されたり、改正されたりしながら、19世紀中ごろまでイギリスの対外経済政策の基本として維持されていく。

さらに、クロムウェルは、共和政支持を拡げようという口実のもと、艦隊を送って西インド諸島や北米大陸のスペイン殖民地に対して攻勢をかけ、ジャマイカ島、バルバドス島、トリニダート=トバゴなどを征服し、これによってイギリス領西インド諸島が形成された。そして、17世紀末、占領したジャマイカは「砂糖革命」(大規模な奴隷制砂糖プランテーション)によって、当時の世界最大の砂糖産地となる。

 こうしたクロムウェルの政策は、イギリスの貿易に決定的な変化をもたらす。それまでほとんど増えていなかった貿易の総量は、半世紀で3倍ほどに増え、さらに18世紀初めの60~70年間にも、また数倍に増えた(「商業革命」)。とくに砂糖の輸入は、世紀の中頃から、まずバルバドスに、ついでジャマイカに砂糖革命が起こり、飛躍的に増える。18世紀中ごろには、イギリス人は平均するとフランス人の8~9倍の砂糖を用いる国民になってしまう(フランス人もカリブ海の島で安い砂糖を作っていたが、紅茶よりもワインを飲むのが普通になっていたため、砂糖をそれほど必要としなかった)。砂糖以上に劇的に増加したのが茶の輸入。1700年頃には年間8000ポンド程度だった輸入量は、70年後にはなんと100倍となる。

ウィリアム・クラーク『アンティグア島十景』(1823年)カリブ海でのサトウキビ栽培

ウィリアム・クラーク『アンティグア島十景』(1823年)①サトウキビの植え付け

ウィリアム・クラーク『アンティグア島十景』(1823年)②サトウキビの刈り入れ

ウィリアム・クラーク『アンティグア島十景』(1823年)③サトウキビを砕いてジュースを絞る

ウィリアム・クラーク『アンティグア島十景』(1823年)④ジュースを煮詰める

ウィリアム・クラーク『アンティグア島十景』(1823年)⑤蒸留し、結晶させる

ウィリアム・クラーク『アンティグア島十景』(1823年)⑥船積み

リチャード・ヒューストン「モーニング」1758年 モーニング・ティーを描いた絵画。目覚めの1杯にお茶をたしなむことは、17世紀前半に上流階級の日常となった。

チャールズ・フィリップ「ハリントン卿邸でのティー・パーティ」1739年 イェール・ ブリティッシュ・アート・センター

サミュエル・クーパー「オリヴァー・クロムウェル」ナショナル・ポートレート・ギャラリー

1653年8月10日第一次英蘭戦争の最後の戦い「スヘフェニンゲンの海戦」 

 「航海法」は三次にわたる「英蘭戦争」の原因となった

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