「イギリス産業革命と紅茶文化」6 緑茶から紅茶、コーヒーから紅茶

 イギリスは長らくオランダ経由で茶を入手していたが、1669年にオランダからの購入ルートを禁止して以来、本格的に自国での茶貿易にのりだすことになった。当時すでにアモイやマカオにイギリス商館が置かれていたので、イギリス人は直接中国に出向き、茶を輸入するようになる。ここで、福建省で作られはじめた発酵茶を知り、それが好みに合ったので、1713年からはさらに高まり、イギリスの茶の輸入量も増えるという循環が生まれ、やがてジャワのバタビアで茶を仕入れていたオランダをはるかにしのぐようになった。

 緑茶よりも発酵茶の方がイギリス人の嗜好にあっていたのは、イギリスの水質にも原因があった。ロンドンの水は石灰分を多く含んだ硬水で、これで緑茶を淹れると、水色だけは濃くなるが、味と香りは弱くなってしまう。特にお茶の渋みのもとになるタンニン(カテキン類)は、ロンドンの水では出ず、パンチのない気の抜けたような味になってしまう。それに比べ、発酵茶はタンニンの含有量が多くなり、中国の水では強すぎるほどになる渋みは、硬水の影響でマイルドになり、むしろほどよい味になる。こうして、18世紀に入ると、発酵茶の需要は益々高まり、1730年代以降には緑茶と紅茶が逆転し、圧倒的に紅茶を求めるようになる。

 では、1730年頃まで、茶よりもコーヒーの輸入が圧倒的に多かったイギリスにおいて、逆転現象はどのようにして生まれたのか?これには、18世紀初めから起きる世界のコーヒー市場の変化が関係する。まずコーヒーの生産・供給の面では、オランダが17世紀末にジャワ、ついでセイロンにコーヒーを移植し、1713年からジャワ・コーヒーがヨーロッパに輸入され始めた。そしてジャワ・コーヒーは1730年までにモカ・コーヒーよりコスト・ダウンに成功し、オランダはコーヒーの供給の流れを変えることに成功した。こうしたオランダのコーヒー栽培・輸出の成功という新しい変化と歩調を合わせるように、イギリス東インド会社のモカ・コーヒーの輸入は、1720年以降急速に衰退し、それに代わって中国茶の輸入がいちじるしい増加を見ることになる。いいかえると、イギリスでは舶来飲料のうちコーヒーが茶よりも先行して普及したが、やがてコーヒーの供給確保での国際競争において、オランダのジャワ、セイロンの栽培コーヒーに敗れていくのである。

 コーヒーの国際競争に後れをとったイギリスは、やむをえずアジア貿易の力点をコーヒーから中国茶の輸入に移してゆく。1723年に茶の関税率が約20%に引き下げられ、茶の価格の下落をもたらし、茶の急速な普及に貢献する。さらに1745年に関税が大幅に引き下げられ、茶の価格は著しく下落し、それに応じて茶の需要は下層の労働者にまで拡大した。こうしたイギリス国内における茶の大衆市場の拡大は、東インド会社の中国貿易への依存を一層高めることになり、その結果、18世紀末における茶貿易の増大はイギリス政府にとって銀流出問題を提起することになる。

 この銀流出問題とは、イギリスが中国から購入する茶に対して、見返り品として適当なものがなく、全体にかなり片貿易になっていて、その決済手段として銀を持ち出さなければならなかったことである。茶の輸入増加とともに大量の銀が流出し、銀不足がひどくなったため、銀の流出を避け、銀に代わるものを何に見出すかが緊急の課題となった。そこで採用された政策が、インド植民地を媒介項にして、インドの産物アヘンを中国に輸出して銀を獲得するという方法である。アヘンは長い間近東やインドで栽培され、ムガール帝国は専売制度によってアヘンを支配下に置いていた。18世紀に入ると、イギリスはアヘン取引の独占権をオランダから奪い、さらに1773年にはイギリス東インド会社がムガール皇帝に代わってアヘンの専売権を握る。こうしてイギリスは伝統的なアヘン取引を継承したが、イギリスがやった新しいことは、はじめて大規模にアヘンを生産し販売したことである。

中国人アヘン吸飲者 19世紀

トマス・ローランドソン「ヴォクソール・ガーデン」1785 オーケストラの演奏に聞きほれる人びと

ヴォクソール・ガーデン 1810

カナレット「ラネラーのロトンダ」1754  ロンドン・ナショナルギャラリー

ジョージ・モーランド「ティー・ガーデン」テート・ギャラリー

0コメント

  • 1000 / 1000