「イギリス産業革命と紅茶文化」5 キャサリン・ブラガンザ
茶がイギリスの王侯貴族の間でもてはやされるきっかけを作ったのは、1662年にチャールズ2世の元へ嫁いできた、ポルトガルのブラガンザ王家のキャサリン王女だった。なぜプロテスタント(イギリス国教会)国家イギリスがカトリック国ポルトガルから王妃を迎えたのか?イギリスでは17世紀の前半から王と議会が対立し、1642年の清教徒革命でチャールズ1世は処刑され、チャールズ2世は国外追放されていた。だがクロムウェル率いる共和政も彼の死後に頓挫し、1660年に、チャールズ2世が帰国して王政復古となったのである。そして、これを機に、イギリスは海外進出のライバルであるオランダに対抗するため、同じくオランダのライバルのポルトガルとの結束を図った。チャールズ2世とキャサリン・ブラガンザの結婚はそのためのものであった。
キャサリンが持参金としてもたらしたのは、彼女自身が飲むための一塊の茶と、7隻の船に満載した砂糖である。ヨーロッパではサトウキビが栽培できないので、砂糖は長い間遠い南国からの高価な品だった。ポルトガルはブラジルでサトウキビを栽培させて砂糖を入手していたが、イギリスには蜂蜜や糖蜜(砂糖を作る過程でできる搾りかす)しかなく、砂糖は銀と同等の貴重品だったので、はじめは持参金に銀を要求していたチャールズ2世も、これを受け入れた。
オランダと異なり、ポルトガルでは茶を飲む習慣が流行していたわけではなかったが、見知らぬ国に嫁ぐに当たり、キャサリンは身を守るために万病に効く東洋の神秘薬を持参したのだった。
そしてこの時もう一つ、ポルトガルがイギリスに送ったのが、インドのボンベイである。これがやがて、イギリス東インド会社の本拠地となり、また中国へのアヘン輸出地にもなっていく。
美しく気高い新王妃として、キャサリンは国民の大歓迎を受けたと言われる。だが、輿入れの際にアンソニー・ハミルトンは次のような記事を書いていた。
「新しい王妃がわが国にお輿入れになったが、宮廷に精彩が加わるわけでもなく、王妃は容姿も華やかではなく従者たちにも勝れた士気は感じられなかった」
結局、キャサリンにとっては不幸な輿入れだった。チャールズ2世は名うての浮気者であり、妻への気配りはなく、無神経だった。この淋しさをまぎらわすために、キャサリンは母国から持ち込んだ茶を一日に何度も飲んだ。
イギリスの王侯貴族たちの間では、「茶で夫の浮気の淋しさをまぎらわす悲哀な王妃」という噂でもちきりだった。いっぽうキャサリンはお茶を貴婦人たちにもふるまったので、王妃からいただく茶は有名になり、貴族たちの羨望の的となる。貴婦人たちの間では、オランダの女性のように一日に1回は茶を飲みたいという願いが強まり、「茶は貴婦人にふさわしい飲み物」という考え方が広まっていった。キャサリンは茶だけでなく、中国や日本の茶道具や磁器の茶碗を王室に紹介し、茶を飲む風習を宮廷に広めた。宮廷ではトップの王や后の真似をするのが貴族のステイタスである。そして街では市民が王侯貴族のファッションを真似る。こうしてイギリスの茶の文化の流行にますます拍車がかかった。しかし、茶が普及したとはいえ、まだ上流階級の流行として、ごく少数の消費がされていた程度だった。
チャールズ2世の死後、1685年に即位したジェームズ2世は露骨な旧教復活政策と専制主義を押し通そうとしたため、国民の反感が高まり1688年名誉革命が起きる。新しい女王メアリ(ジェームズ2世の長女でプロテスタント。オランダのウィレム3世と結婚)は、先にキャサリンがポルトガルから持ってきたのと同じく、茶、磁器、漆器などの東洋趣味をオランダから持ち込んだ。さらに次に王位に就いたアン女王(メアリ女王の妹)も東洋趣味の愛好家であったから、とくに飲茶がファッショナブルな飲み物として宮廷から上流階級の間に拡がった。
チャールズ2世とキャサリン・ブラガンザ
「キャサリン・オブ・ブラガンザ」ナショナル・ポートレート・ギャラリー
ピーター・レリー「キャサリン・オブ・ブラガンザ」
ゴドフリー・ネラー「メアリー2世」1690年 ウィンザー城
ウィリアム3世とメアリ2世 1703年
ジョン・クロスターマン工房「アン女王」ナショナル・ポートレート・ギャラリー
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