「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」4 ブローニュの森
4月30日、昭武はフォンテーヌブローの競馬観覧に招かれ、栄一も随行した。競馬場にはロシア皇帝、フランス皇帝、プロイセン皇太子、ベルギー国王が、多数の貴族とともに姿を現わしていた。仏帝、露帝は10万フランの賭けをしたが、露帝が勝ち、賭金を得たので、それをパリの貧民に与えるべく寄付したという。栄一は皇帝が博奕をすることに驚いている。
この競馬場は、パリ16区ブローニュの森の中にある世界で1番美しいと言われるロンシャン競馬場。日本でも「凱旋門賞」(Prix de l'Arc de Triomphe)で有名だが、1857年に開設された。栄一たちが訪れた前年、マネがここを舞台にした作品「ロンシャン競馬場」(1866年 シカゴ美術館)を描いた。初めて展示されたのは1884年1月、パリのエコール・デ・ボザール国立高等美術学校でのことだったが、その絵画をはじめて見る者はみな度肝を抜かされた。競走馬と騎手の群れが、絵を見ている自分に突進してくるような構図。従来の横からレースを観るのではなく、走りこんでくる競走馬と騎手たちを真正面からとらえた大変革新的なものだったからだ。レースの最後の瞬間を切り取り、まさに今、競走馬たちがゴールラインを勢いよく通り過ぎる様子がみずみずしく描かれている。見る者に、まるで自分も競馬場にいるかのような臨場感を感じさせてくれる作品だ。ドガも『ロンシャンの競馬』(1873-1875 ボストン美術館)を描いた。競馬は、19世紀の始め頃に英国からもたらされた娯楽的競技であり、当時のフランスにおいて上流階級の人々の間で流行していた。貴族階級出身であるドガも競馬に興味を示していたが、その対象は競技の興奮的な展開や迫力にあったというよりも、競技前の独特な緊張感や騎手や競走馬の動きなどに向けられていた。
このロンシャン競馬場があるブローニュの森は、ナポレオン3世とオスマン男爵によるパリ大改造(1852年~)によって整備された多くの緑地帯のひとつ。ナポレオン3世は、ロンドンのハイドパークやリージェントパークを見て、パリにもこれらに負けないような美しい森林公園をつくりたいと願い、ブローニュの森の工事の成功にいわば皇帝としての威信をかけていた。オスマンとしても、凡庸な技師に設計を任せるわけには行かなかったが、セーヌ県庁にはこれをこなせるほど芸術性豊かな土木技師がいないことに悩んでいた。そのとき思い出したのが、ジロンド県知事時代に森の整備を託したことのあるアドルフ・アルフォン。彼はただちにパリに呼び寄せられ、1854年の暮れから仕事にとりかかった。最初、アルフォンの友人たちは、土木建設省のエリート(彼はエコール・ポリテクニック出身)が、こんな造園工事を引き受けたと冷笑していたが、ブローニュの森がよそうをはるかに上回る見事な出来栄えで完成したのを見ると、考えを改めた。アルフォンは、公園の概念そのものを変えてしまったのである。
このブローニュの森(公園)を5月10日(6月12日)早朝、その朝景色を見ようと同僚とともに散策している。
「曙のえんにおかしく木々の葉も露けく往来の人影も絶えて、ゆくゆく互いに口すさびなどしつつ、川のほとりにいたりけるに、水鳥など群れ居て時ならぬ人跫(ひとあし)にも驚く気配もなくて、閑なるさまは、人の害せる心なきに馴れたる。道の傍らに、えならぬ花など咲きつづけたれども、手折(たお)る人さえもなきは、興ある政の先ずゆかしくぞ思わる。それより滝のあるところにいたり、人待つために設けたる椅子あり。しばらく憩息し、日の出るころに各帰りぬ」(『航西日記』)
栄一がまだパリにいた1868年1月に26歳のルノワールは冬のブローニュを描いた(「ブーローニュの森でスケートをする人々」)。まだ建造間もないブーローニュの森の凍った湖の上で憩いのひとときを過ごすパリの老若男女多数が、冬景色とともに描かれている作品だが、寒さと雪を極度に嫌ったルノワールが残した数少ない冬の風景画のひとつでもある。また大作「ブローニュの森の乗馬道」(1873年 ハンブルグ美術館)をサロンに出品したが落選。以後ルノワールは公認美術界と訣別することになる。
ロンシャン競馬場 1860年
ロンシャン競馬場 1857年
マネ「ロンシャン競馬場」1866年 シカゴ美術館
マネ「ブローニュの森のコース」1872年
ドガ「ロンシャンの競馬」1873-1875 ボストン美術館
ルノワール「ブローニュの森の乗馬道」(1873年 ハンブルグ美術館)
ナポレオン3世による競馬の招待者(『イラストレイティッド・ロンドン・ニュース』1867年6月22日)
ロンシャン競馬場(現在)
アルフレッド・ロル「アドルフ・アルファン」プチ・パレ パリ
ジュール・ダルー「アルファン記念碑」フォッシュ大通り パリ
ルノワール「ブーローニュの森でスケートをする人々」(1868年 個人蔵)
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