2021.04.01 03:32「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」8 「パリの美化」③ パリは1860年1月1日をもって、周辺の11の市町村を合併し、市域を2倍以上に拡大して、行政区分も12区制から20区制に変更した(これは現在も同じ)。アメニティの設備のまったくない市域外の市町村が合併されたことは、必然的にオスマンに改造計画の変更を強いることになる。すなわち、新...
2021.03.30 03:59「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」7 「パリの美化」② 第一期工事では、ブローニュの森も整備され、エトワールからそこに至る広大な大通りが「アンペラトリス大通り」として建設された。今日、「フォッシュ通り」(パリで最も幅が広い通り)として知られるあの広壮な並木道である。オスマンは幅員120メートルの大通りにさらに10メートルの歩道を両側...
2021.03.29 05:31「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」6 「パリの美化」① ナポレオン3世が「パリの美化」と呼んだパリ大改造をオスマンは、緊急度に応じて工事を3期に分け、逐次遂行していくことにして、1853年の暮れから第一期工事にとりかかった。まずナポレオンが工事を始めたリヴォリ通りを完成させるためにテユイルリ宮の中庭に入り込んでいた貧民街を撤去する。...
2021.03.28 04:04「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」5 上下水道 ブローニュの森の整備に続いて、オスマンはアドルフ・アルファンを起用してシャンゼリゼの並木道、ヴァンセンヌの森、モンソー公園、ビュット・ショーモン公園、モンスリ公園など、今日でもパリジャンの憩いの場所になっている緑地帯の整備を行った。アルファンはこれらの公園や森や並木道をそれぞれ...
2021.03.27 01:03「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」4 ブローニュの森 4月30日、昭武はフォンテーヌブローの競馬観覧に招かれ、栄一も随行した。競馬場にはロシア皇帝、フランス皇帝、プロイセン皇太子、ベルギー国王が、多数の貴族とともに姿を現わしていた。仏帝、露帝は10万フランの賭けをしたが、露帝が勝ち、賭金を得たので、それをパリの貧民に与えるべく寄付...
2021.03.26 05:17「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」3 照明 栄一の従兄であり学問の師でもあった藍香(尾高惇忠)宛書簡の中の一節。「火はガスと申形なく燃え、光焔尤(もっと)も清明、夜は満面に照映して市街道途とも昼にことならず」 日が暮れると同時に真の闇に落ちる江戸の夜、人々が頼りにしたのは行灯のあかり。ただしその明るさは、現代の60ワット...
2021.03.25 01:25「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」2 鉄道 フランス到着後、渋沢たちは、港町マルセイユからパリまで鉄道を利用した。1857年にパリーリヨン線がリヨンー地中海線と合併されてできたPLM鉄道(Compagnie des chemins de fer de Paris à Lyon et à la Méditerranée)で...
2021.03.24 01:13「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」1 パリ到着「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」1 パリ到着「汽車にて夕四時仏都巴里欺(パリス)へ着きぬ。・・・巴里都中央のカプシンヌ街なるガランドホテルに投宿せり」(『渋沢栄一滞仏日記』) 一行は、慶応2年3月7日(1867年4月11日)夕刻、横浜を発ってから56日目にパリに着く。宿泊する...