「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」3 照明

 栄一の従兄であり学問の師でもあった藍香(尾高惇忠)宛書簡の中の一節。

「火はガスと申形なく燃え、光焔尤(もっと)も清明、夜は満面に照映して市街道途とも昼にことならず」

 日が暮れると同時に真の闇に落ちる江戸の夜、人々が頼りにしたのは行灯のあかり。ただしその明るさは、現代の60ワット電球に比べるとだいたい50分の1程度でしかなかったと言われている。故郷血洗島の茅葺屋根のつらなるあいだを揺れながらうごいてゆく提灯の明かりを思えば、パリの夜景はまさに別世界。当時は、江戸の町でも夜になれば、道路の辻には常夜灯がおぼめく光を放つだけの、漆のような闇につつまれた。歌舞伎にしても、照明は基本的に自然光を利用したもので、芝居小屋に明かり採りの窓があり、スタッフが必要に応じて開閉した。そのため、興行も早朝から日没までと決まっていた。とはいえ、舞台には屋根があるから全体的に劇場内はそれほど明るくもなく、舞台前面にカンテラと称する燭台を置き、蝋燭による明かりで舞台を照らした。また、花道を歩く役者の顔がよく見えるようにと使われたのが「面明り(つらあかり)」。長い柄の先に燭台がついていて、黒子がこれを持ち、蝋燭の灯りで役者の顔を照らした。いわば蝋燭スポットライト。安達吟光「大江戸しばゐねんぢうぎやうじ さし出し・かんてら」などを見るとその様子がわかる。

 ところで、江戸時代の行燈の燃料の灯油(ともしあぶら)は何が使われていたのか?菜種油は高価なので、もっと庶民はイワシやニシンの魚油。しかし、煙が出るうえ臭いは相当きつかったようだ。蝋燭は室町時代以降、国産されるようになったが、製造に手間ひまがかかるためとっても高価。たとえば、1本の重さが100匁(もんめ/約375g)もある「百目蝋燭(ひゃくめろうそく)」は、行灯の10倍ともいわれる明るさを放ったが、燃焼時間は3時間半くらいで1本で200文(約8000円)とめちゃくちゃ高い。当然ながら蝋燭を照明として使用できるのは、将軍や大名、大寺院、高級料亭、吉原など遊郭、豪商の家といった特殊な場所に限られた。

 こんな江戸時代の日本からやって来た昭武一行は、3月29日(5月3日)、ナポレオン3世の招待をうけ観劇(オペラ座、と言っても12代目のオペラ座「ガルニエ宮」=新オペラ座が完成するのは1875年なので、11代目のル・ペルティエ街のオペラ座【1821―1873】。ドガのオペラ座を舞台にした作品も、有名な「エトワール」は1878年頃に描かれているので、新オペラ座だが、「オペラ座のオーケストラ」【1870年】や「舞台のバレエ稽古」【1874】は旧オペラ座が舞台になっている)におもむく。栄一も随行。

「夜八時より仏帝の催せる劇場を看るに陪す。この劇場を看るは欧州一般の礼典にして、およそ重礼大典等おわすれば、必ずその帝王の招待ありて、各国帝王の使臣等を饗遇慰労する常例なり」(『航西日記』)

 言語も趣向、仕組みもわからないから、劇の筋立ては推測するしかなかっただろうが、栄一はその情景に反発を覚えることなくひきこまれた。

「舞台の景象、瓦斯燈、五色のガラスに反射せしめて光彩を取るを自在にし、また舞妓の容輝、後光、あるいは雨色、月光、陰晴、明暗をなす、須臾(しゅゆ。ほんの少しの間)の変化その自在なる、真に迫り観ずるに堪えたり」(『航西日記』)

 4月1日(5月4日)午後10時、栄一は外務省での舞踏会に陪席する。主催者が親族知己を招待する盛大な茶会で、華麗な会場の飾りつけに目を奪われる。あらかじめ招待状を配り、当日には花を飾り、まばゆい灯火をつらね、庭には燎火を設ける。料理、茶、菓子を場内のテーブルに盛り上げ、賓客は皆礼服を着て、互いに歓談し音楽が奏でられると、その曲に応じ男女がおなじ年頃の相手を選び、手をとり肩を抱いて舞踏をする。舞踏に加わらないのは、昭武一行だけであった。フランスには、人間の生を自由に楽しむ風潮があり、栄一はその長所を取り入れなければならないと思った。

国芳「婚礼色直し之図」

 裕福な家の娘の婚礼。衣桁には色とりどりの着物が掛けられており、白無垢から赤地の盛装にお色直しの最中。

歌麿「婚礼之図」

 ここでも贅沢にも三本の百目蝋燭が灯されている

十返舎一九著、喜多川歌麿画『青楼絵本年中行事』

豊原周延「千代田之御表 御謡初(うたいぞめ)」

 さすが江戸城。ふんだんに百目蝋燭が使われている。

鈴木春信「坐鋪八景 行燈の夕照」

国貞「江戸名所百人美女 千住」

英泉「秋葉常夜灯」  右端に常夜灯が描かれている

葛飾応為「吉原格子先之図」

 中に巨大な行燈が置かれている

安達吟光「大江戸しばゐねんぢうぎやうじ さし出し・かんてら」

電気照明が出てくる以前の舞台の照明の様子がわかる。「面明り(つらあかり)」を本図では、裃を着けた役者が行っているが、これは、「娘道成寺」という古典的な舞踊であるためで、通常の舞台では、黒衣がこれを行った。

ナポレオン3世主催観劇会の招待席(『イラストレイティッド・ロンドン・ニュース』1867年6月22日)

オペラ・ル・ペルティエ

ドガ「オペラ座のオーケストラ」1870年 オルセー美術館 

ドガ「舞台のバレエ稽古」1874年頃 メトロポリタン美術館

 これもオペラ・ル・ペルティエ

ドガ「エトワール」1878年 オルセー美術館   これはオペラ・ガルニエが舞台

1867年 オペラ座のファサード

 1867年パリ万博までに何とかファサードだけ完成させた

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