「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」5 上下水道

 ブローニュの森の整備に続いて、オスマンはアドルフ・アルファンを起用してシャンゼリゼの並木道、ヴァンセンヌの森、モンソー公園、ビュット・ショーモン公園、モンスリ公園など、今日でもパリジャンの憩いの場所になっている緑地帯の整備を行った。アルファンはこれらの公園や森や並木道をそれぞれコンセプトを変えて設計しながら、全体的に統一感のある外観にそろえた。世界一の美都パリは、まさにアルファンの頭から生まれたのである。

 ところでパリの森、公園、並木道などいわば「上部構造」を整備するには、まず上下水道をはじめとする「下部構造」=インフラの整備が必要。それを担ったのはエコール・ポリテクニック(理工科学校)出身の俊英で、上下水道の専門家ウジェーヌ・ベルグランだった。オスマンは、1854年に本格的な工事に入る前にベルグランを呼び寄せ、パリ市に上水道を引くための水源調査を命じる。パリ市の人口増加を見越すと、セーヌ川やウルク運河からの導水ではとうてい足りず、どこか遠い水源から水を引いてくるほかないと考えていたからだ。ベルグランはパリから150キロ近く離れたヴァンヌ川とデュイス川から水を取るプランを提案。水道管の敷設には多額の費用を要するが、水質は良好で、パリとの高低差により用水が容易だからである。そして飲用に供されない水は従来のセーヌ川とウルク運河の水を使用するという、二本立てで上水道を処理するアイディアを提案し、オスマンによって直ちに採用された。19世紀パリの水売りは有名だが、彼らが汲み取るセーヌ川の取水口の近くで洗濯船が浮かび、下水口から汚水が垂れ流されている、といったおぞましい光景はこれによって解消されたのであった。

 5月24日(6月26日)、栄一たちはフリュリ・エラールの案内で、市街中の飲用水の溜め池を見学する。それはパリ郊外1マイル(約1.6㎞)ばかりのところにある広大な施設で印象をこう記している。

「水源は遠く巨河の委流より堰来りて、水溜に湊合《アツメ》、器械を以て水勢を激し、各個鉄製の巨筩《ことう》《オホキナトヒ》に注ぎ、地中を通、市中各戸の飲用、その他数種の噴水園池の用に供す。毎戸の飲用は、すべて細小なる真銅の管にて、管頭に捏子《ねぢ》ありて、これを旋(めぐ)らせば水自ら噴出す」(『航西日記』)

 ベルグランは、パリの上下水道管理局の局長に任命されると、地下に巨大な導管を掘って、そこに下水溝を設置し、その中に上水道管も通すという計画を打ち出した。ベルグランはこの下水溝を馬車を通せるほど巨大なものにすることで、清掃を容易にすると同時に、氾濫を防止し、おまけに上水道の敷設工事も簡略化するという画期的な解決策を見出した。

 19世紀末まで下水道さえなかったパリでは、各家庭で出された汚物は道路に放り出され、その汚物が雨によって流され、セーヌへと注がれていた。下水道の代わりになっていたのが、道路の中央に刻まれた溝(路上中央溝)。家庭から出された廃水と雨水がその溝に集まり、徐々に流れてセーヌへたどり着く仕組みだ。路上中央溝は決して清掃されることはなく、夏には水が澱んで腐り、強烈な悪臭を放っていた。しかも台所から出た廃水だけではなく、人間の排せつ物も混じっていたため、その臭気は現代では想像のつかないものだったはず。そして、その水を馬車の車輪がはね上げ、道行く人にその飛沫がかかった。コレラが蔓延したのも当然だ。

 ベルグランが建設した下水道は1869年には560キロ〈1852年の4倍の長さ)にもなる。栄一はすすんで下水溝も見学した。くさくてたまらぬ見学で、いつも同行するフリュリ・エラールも逃げ出した後、栄一は下水道の役人にせがみ、汚水が泡立って流れる暗渠の中を、歩いたり小舟に乗ったりしてくまなく見て廻った。その下水道も模様も細かく日記に描写したが、さすがに最後に一筆こう付け加えずにはいられなかった。

「洞中陰々として臭気鼻を穿つ。漸く日を望むを得て大に快然たり」

「セヴァストポール大通り」の地下の巨大下水溝

下水道を見学する人々 1870年

ウジェーヌ・ベルグラン

モンソー公園 1853–70頃 凱旋門から徒歩15分ほど

モンソー公園の位置(パリ8区内)

モンソー公園

モンソー公園内のロトンド

モネ「モンソー公園」1876年 メトロポリタン美術館

モネ「モンソー公園」1878年 メトロポリタン美術館

カイユボット「モンソー公園」1877年

1875「散歩に出かける子供たち」モンソー公園かモンス―リ公園

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