「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」2 鉄道

 フランス到着後、渋沢たちは、港町マルセイユからパリまで鉄道を利用した。1857年にパリーリヨン線がリヨンー地中海線と合併されてできたPLM鉄道(Compagnie des chemins de fer de Paris à Lyon et à la Méditerranée)である。19世紀は鉄道網が飛躍的な発展をみた「鉄道の世紀」だった。

 しかし、意外なことに内陸国のフランスで鉄道の重要性が広く認識されたのはきわめて遅く、1840年代に入ってからのことだ。イギリスやベルギーが1830年代には早くも鉄道網の建設に着手していたのと比べると、フランスは大幅な遅れをとっていたことになるが、それでもまだ鉄道に対する関心は希薄で、有効性を疑問視する声も強かった。第一の理由は、「ディリジャンス」と呼ばれる大型乗合馬車と「ポスト」と呼ばれる郵便馬車がくまなくフランス全土をカバーし、少なくとも人間の移動に関しては、かなり用が足りていたこと。第二の理由は、科学者たちが盛んに鉄道の危険性を言い立てていたことだ。「トンネルに入ったら蒸気機関車の吐き出す煤煙によって乗客は窒息死するだろう」とか、「汽車のスピードが人体に好ましからざる影響を与える」とか、さまざまな鉄道反対の疑似科学的言説が考え出された。鉄道反対の言説は議会の政争に利用され、野党の議員たちは、鉄道など空想家のたわごと、子供の玩具として、その無用性を盛んに言い立てた。その結果、鉄道は、民衆が日曜に郊外に物見遊山に行くための行楽手段としてしか認識されず、敷設された鉄道も、1837年のパリーサン・ジェルマン線、1839年のパリーヴェルサイユ線など、郊外散策用のものに止まった。

 認識が変化するのは、1840年に鉄道憲章が制定されてから。第一次鉄道ブームが起こり、営業路線も1830㎞に伸びている。ただし、このブームは1847年恐慌に巻き込まれて一時頓挫する。この状況が一変するのは、1851年12月2日のルイ・ナポレオンによるクーデタが起こってから。とりわけ、ルイ・ナポレオンが1852年初めに、既設の鉄道会社に対して、開発利権の期間延長を最高99年まで認める大統領令を布告したことで、フランスは空前絶後の鉄道投機時代に突入した。1857年には、7月王政期に33あった鉄道会社を6社に整理統合し、パリを中心に放射線状に広がる全国幹線網の整備を一層推し進めた。たとえば、パリ―リール―ベルギーへとつながる北部鉄道は、繊維産業、製鉄業、炭鉱業の中心地と首都をつなぐ大動脈となったし、渋沢たちが利用したPLM鉄道はパリ―リヨン―地中海をつなぐ最長路線に成長した。第二次鉄道ブームが起こり、営業キロ数も1851年の3627㎞から1870年には1万7933㎞と、5倍近くに飛躍している。関連産業への波及効果はもとより、流通経路の拡大は全国市場への展望を切り開くものとなった。

 ところで、長距離列車とは別にパリジャンの日曜日の行楽の足になったのは、1837年に開通したパリーサン・ジェルマン線。アルジャントゥイユやアニエールなど、セーヌ河畔の行楽地にはこの線が利用され、その発駅がサン・ラザール駅だった。1867年の第2回パリ万博に合わせて増強改築を重ねたこの駅舎は発展してゆくモダン都市の象徴だった。モネとルノワールの二人がイーゼルを並べて描いたと云われる名画「ラ・グルヌイエール」(印象派の出発点になったとも言われる)は、パリ近くブージヴァル近郊セーヌ川の河畔にある新興行楽地であった水浴場、ラ・グルヌイエールをモデルにしている。ここは、サン・ラザール駅から列車で15分ほどのシャトゥー・クロワシー駅で降りれば、舟ならすぐ、歩いても10分ほどの距離の人気スポットだった。舟は「メゾン・フルネーズ」で借りた。ルノワールの名作「舟遊びの人々の昼食」(1880年―81年)はここのテラスが舞台である。「メゾン・フルネーズ」は、1857年、ボート職人だったアルフォンス・フルネーズ(ルノワールは1875年に「アルフォンス・フルネーズの肖像」を描いている)が建物を購入し、貸しボート屋を開業。1860年にレストランを開業し、1877年にテラスを増築した。ルノワールは、ここを舞台に多くの作品を描いた。

「私は〈フルネーズ〉に入りびたっていた。絵になるすばらしい娘たちが、好きなだけそこにはいた」

「ディリジャンス」(大型乗合馬車) 1841-44年  カルナヴァレ博物館

ジュール・ノエル「トレ・ポールに到着したディリジャンス」1878カンペール美術館

ルイ=レオポルド・ボワイー「郵便広場に到着した乗合馬車」1803年 ルーヴル美術館

ヴィクトール・アダン「大型郵便馬車(マルポスト)」アムステルダム国立美術館

ドーミエ「列車は楽し 傘を持たずに海を見に行こうと考えたことを深く後悔しているパリジャンたち」

 乗合馬車に倣って座席が配置されたため、一等、二等車両に加え、屋根なしの三等ワゴン車があったが、さらにこの絵のような、車両上部に設置された屋上席もあった。

ドーミエ「襲撃される客車(『シャリヴァり』1843年7月28日

1877モネ「サン=ラザール駅 列車の到着」フォッグ美術館

1877モネ「サン=ラザール駅」オルセー美術館

1869モネ「ラ・グルヌイエール」メトロポリタン美術館

1869ルノワール「ラ・グルヌイエール」ストックホルム国立美術館

1879 ルノワール「シャトーの舟遊び」

1880ー81 ルノワール「舟遊びの人びとの昼食」フィリップス・コレクション ワシントン

1875ルノワール「アルフォンス・フルネーズの肖像」クラーク美術館

1879ルノワール「アルフォンシーヌ・フルネーズの肖像」オルセー美術館

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