「ベル・エポックのパリ」4 共和政の危機と変容(1)「ブーランジェ事件」
1880年代の穏健共和政は、その後二度の大きな政治的危機を体験し、共和政そのものも大きく変容することになる。第一の危機は、1880年代後半の「ブーランジェ事件」。1886年に陸軍大臣に就任したブーランジェ将軍は、軍部高官にはめずらしく民衆出身の共和派軍人であり、軍隊の共和主義化・民主化をはかり、また炭鉱のストライキに際してはスト参加者の立場に共感を示して労働者の支持を得た。さらにロレーヌで起こったドイツとの国境紛争(「ジュネブレ事件」1887年4月20日、ドイツ国境においてフランスの一警察官がスパイ容疑で逮捕)では強硬姿勢を貫き(ビスマルクをして独仏の友好にとって最大の危険人物と言わしめた)、対独摩擦を恐れるオポルチュニスト外交の弱腰にいらだっていた大衆の人気を集め、一躍「復讐将軍」、国民的英雄ともてはやされるようになった。
これを危険視した政府が翌年彼を地方に左遷するが、そのことがかえって民衆の怒りを掻き立て、ブーランジェは王党派、ボナパルト派、急進派などのあらゆる反政府勢力を糾合する存在となる。1888年以降、彼は各地の補欠選挙に次々と立候補し、当選しては辞退し、また立候補を繰り返すというかつてナポレオン3世がやったやり方で得票を伸ばす。この戦術は一種の人民投票のような政治的効果をもった。また、彼の選挙活動では、復讐将軍をたたえるシャンソンがうたわれ、名前と肖像画を盛り込んだ絵入り新聞やパンフレット、ブロマイドさらにはブーランジェ・グッズまでが大量に配布されるなど、都市大衆向けのイメージ・キャンペーンが展開された。
あたかもフランス革命百周年にあたる1889年1月27日、パリの補欠選挙で議会主義共和派統一候補に圧勝した夜、ブーランジェ運動は最高潮に達し、首都は文字通りクーデタ前夜の熱気に包まれた。右翼「愛国者同盟」のデルレードら支持者はブーランジェにエリゼ宮(大統領官邸)への進撃を迫った。しかし、秋の下院選での合法的政権奪取にこだわったブーランジェは、この決定的瞬間に行動をためらった。期待を裏切られた大衆運動のエネルギーは急速に拡散する。急進共和派を与党に加えた政府の素早い反撃でブーランジェ派は四散、陰謀罪の適用を恐れてブーランジェ自らはベルギーに亡命。欠席裁判で国外追放となったブーランジェに復活の道は閉ざされ、2年後、失意の元将軍は愛人ボヌマン夫人の墓前でピストル自殺した。ブーランジェ事件はこうしてあっけなく終わったが、これによって、微温的なオポルチュニスト共和主義の脆弱性が露呈した。
この事件の後、共和政に対する下層民衆の不満は、社会主義運動や労働運動によって表明されるようになる。これらの運動はパリ・コミューン鎮圧の後しばらく沈滞していたが、パリ・コミューン恩赦の影響などを受けて、1890年代には社会主義政党や労働組合が発展を遂げた。当時の社会主義者は多くの党派に分裂していたが、1893年の下院選挙では40以上の議席を獲得して大きく躍進した。これに伴って諸党派の統一の動きが起こり、1905年にはジョレスの主導する統一社会党(SFIO)が結成されることになる。いっぽう、こうした議会主義的傾向を強める社会主義に反撥した労働組合は独自の運動を行い、1895年に労働総同盟(CGT)を結成した。ここを拠点とする、組合(サンディカ)がゼネラル・ストライキなどの直接行動を通じて社会革命の実現を目指すというフランス特有の労働運動は、一般に「革命的サンディカリズム」と呼ばれる。
こうした社会主義や労働運動の進出を前にして、王党派やカトリックの中には共和政に接近する動きが現れる。いわゆる「ラリマン(加担)」である。例えばローマ教皇レオ13世は1892年の回勅において、共和政の容認をフランスのカトリック信者に求めている。実際にこれに応じた信者は多くなかったが、穏健共和派は社会主義の台頭といった状況に対応するためにこのラリマンを受け入れ、より保守化する傾向を示した。「進歩派(プログレシスト)」と自称した彼らは新たな穏健共和政を確立し、カトリックへの寛容や社会政策の実施などを打ち出していった。
ジョルジュ・ブーランジェ
ジョルジュ・ブーランジェ 1890年
ブーランジェ運動の高揚を描いた風刺画
ジャン・ウジェーヌ・ビュラン「プロパガンダ」オルセー美術館
ブーランジェ将軍の肖像画を農民の家族に配布
1889年1月27日の選挙に圧勝 ブーランジェ将軍の退出時のレストラン「デュラン」の周辺 1月28日午前1時
ジョルジュ・ブーランジェの自殺
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