「ベル・エポックのパリ」5 共和政の危機と変容(2)「ドレフュス事件」

 ブーランジェ事件の後、オポルテチュニストが旧オルレアン派と結ぶ中央右派政治の時代となるが、ここに第二の危機「ドレフュス事件」がおこった。発端は陸軍省内のスパイ事件である。当時における反ユダヤ主義の高まりの中、ユダヤの参謀大尉ドレフュスがドイツへ軍事機密を渡したとして確たる証拠もないまま軍法会議で有罪となり、1894年に南米の植民地ギアナへ流刑(終身流刑)となった。

 1896年、フランス陸軍情報部は、情報漏洩者がフランス陸軍の少佐フェルディナン・ヴァルザン・エステルアジであることが突き止めた。軍上層部はそれ以上の調査を禁じたが、このことがドレフュスの兄の耳に入り、兄はエステルアジを告発する手紙を陸軍大臣宛てに書いた。しかしフランス陸軍大臣のシャルル・シャノワーヌは再審に反対。国家主義、反ユダヤ主義の世論にも影響され、エステルアジは軍法会議にかけられたものの、無罪となりイギリスに逃亡した。

 最初は家族と知人を中心とした再審要求運動であったが,上院副議長 A.シューレル・ケストネル,のちの首相 G.クレマンソーらの支持を得て再審要求運動は拡大した。1898年1月13日の急進派系新聞『オーロール』に、作家エミール・ゾラが『私は糾弾する』と題する大統領への公開質問状を発表し、政府・軍部を非難すると、激しい議論が展開される。個人の有罪,無罪の論議をこえて,左翼には,国権に対する個人の自由を守り,軍を議会の統制下におこうとした反教権的な「ドレフュス派」,右翼には,軍の威信や伝統的価値を擁護し,対ドイツ愛国心を強調する国家主義者,頑固なカトリック,反ユダヤ人主義者,保守主義者などを中心とする「反ドレフュス派」が形成され,国論を2分して抗争するにいたる。事件そのものは、偽証や証拠隠滅工作が明るみに出て、ドレフュス派の優位のうちに推移したが、あせった右翼ナショナリストのクーデタ未遂や、再審派の新大統領ルーベにたいする殴打事件が起こるなど、いっとき議会共和政が危機に瀕する事態にまで発展した。

 つぎつぎに新事実が明らかになってドレフュスの冤罪は明白になったにもかかわらず、政府、軍部は再審を拒否し続ける。1898年 H.アンリ大佐が文書の一部偽造を告白して自殺したため,再審は確実となり,1899年に急進派や社会主義者をふくむ左翼連合を基盤とするヴァルデック‐ルソー内閣が生まれ、再審のレンヌ軍法会議が開かれたが、なおも軍法会議は減刑しただけで、有罪判決を取り消さない。9月に首相のはからいで大統領によって特赦するという政治的決着がはかられた。ペギーら一部の知識人はこの「欺瞞的解決」に激怒したが、世論は沈静化する。軍法会議判決が破棄されドレフュスに無罪判決が控訴院でくだされたのはそれから7年後、1906年のことである。

 ドレフュス事件に勝利したあと、共和主義の担い手はオポルテチュニストから急進派に移り、1901年にはそれまで離合集散を繰り返していた共和諸派が、右翼ナショナリストに対抗する中から「議会共和政の防衛」を旗印に大同団結してフランス初の本格的な政党である「急進共和・急進社会党」という中道的国民政党を結成する。四分五裂だった社会主義諸潮流もジョレス派を中心として議会主義に合流し、中道派内閣を補完する役割を担っていく。こうして、議会共和政に対する反体制勢力としては、労働者の自立を標榜し、反議会主義=直接行動とゼネストによる社会革命をめざしたサンディカリストと、「アクション・フランセーズ」などの右翼ナショナリストを残すのみとなった。だが、これら左右の過激派は大きな影響力を持つにいたらなかった。共和国防衛の枠組みから取り残された勢力の中で、いまや最大の社会的影響力を持つのはカトリック教会だった。彼らはドレフュス事件においても、王党派と結んで国家転覆をはかったとみなされていた。

アルフレッド・ドレフュス

1895年1月13日 ドレフュス大尉の不名誉な除隊を描いた挿絵

 官位剥奪式で軍刀をへし折られるドレフュスドレフュス=中央左

ゾラの公開質問状「私は糾弾する!」を掲載した『オーロール』紙

1898年 悪魔島でのドレフュス

「ディアブル島」(悪魔島)  ドレフュスは1895年から1899年までこの島で服役

エドゥアール・ドゥバ=ポンサン「井戸から出てきた真実」オルセー美術館 

 作者は共和主義者でドレフュス事件ではドレフュスの擁護者として活動した

フェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ 

 英国に逃亡した後の1899年、自分はドイツのスパイであり、ドレフュスの筆跡を真似て書類を捏造したと告白した

1899年 レンヌの軍法会議で有罪判決を受けるドレフュス

1906年名誉を回復したドレフュス

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