「ベル・エポックのパリ」3 第三共和政と国民統合
1880年代の共和政を主導したのは、穏健共和派と呼ばれるグループである。当時の共和派は大きく分けて穏健共和派と急進派のふたつのグループが存在し、クレマンソー率いる後者が共和主義の理念に即した抜本的な改革を主張したのに対し、ジュール・フェリーを中心とする前者は急激な改革を望まず、個々の政治課題を他の政治党派と妥協しながら解決する方針を取った。そのため急進派からは「オポルチュニスト(Opportuniste 日和見主義者)」と揶揄されたが、彼らにとってこの政治手法は、「時宜にかなった(オポルタンOpportun)」政策をひとつずつ着実に実施することで、社会を少しずつ変えていくことを目指すものであった。この穏健共和派の政権は、その後いくつかの危機にさらされつつも、1890年代末まで存続する。
1880年代の共和政は、フランス革命の継承者として、革命の諸原理を定着させるとともに、その原理のもとに人びとをフランス国民として統合することを目指し、様々な施策を打ち出していった。まず政治的自由の実現については、1880年にパリ・コミューン参加者に恩赦が与えられ、、また「酒場開業の自由」が認められた。後者は政治的自由と無関係なようにも見えるが、民衆の政治的論議の場を保証するものであり、翌1881年の「集会と出版の事前認可制廃止」につながった。1884年には労働組合を容認する「ヴァルデック・ルソー法(結社の自由化)」、各市町村議会に普通選挙を導入し一定の地方自治を認めた「自治体改革」、そして上院の終身議員廃止と矢継ぎ早に政治の自由化を推進している。
反教権主義政策についても精力的であった。たとえば「日曜労働の自由」の承認(1880年)はキリスト教の安息日に反するものである。1884年の「ナケ法」も、教義に反するため復古王政下の1816年に廃止されていた離婚を合法化するものだった。フェリーが強力に推進した初等教育への無償・義務・世俗化原則の導入(1881年~82年)や、女子中等教育の世俗化(「カミーユ・セー法」1880年)とセーヴル女子高等師範学校の開設(1881年)などは、教育の領域からカトリックの影響力を排除すること、すなわち世俗化を実現することがその最大の目的だった。
さらに、この国民統合の過程においては、現代のわれわれにとってもなじみ深い、フランスや共和国を表す様々なシンボルや祝祭が制度化されている。例えば現在のフランスの国歌である「ラ・マルセイエーズ」や国旗である三色旗が最終的に制度化されたのは1879年から80年にかけてのことであり、7月14日の革命記念日(フランス革命におけるバスティーユ襲撃の日)が国民の祝祭日になるのも、1880年のことである。さらにこの時期には、共和国を象徴する「マリアンヌ」が全国の公共の場に普及し(ちなみにニューヨークの「自由の女神」像もそうした像のひとつである)、革命のスローガンである「自由・平等・友愛」の標語が全国の市町村役場でみられるようになった。1889年のパリ万国博覧会の際に建設されたエッフェル塔も、フランスの科学技術の高さを誇示するだけでなく、王党派やカトリックが同じころにパリのモンマルトルに建造中であったサクレ・クール寺院に対抗するという意図が込められていた。共和派はこれらのシンボルや祝祭を通じて、フランス革命の継承者としての共和政のイメージを人びとに強く印象付けようとしたのである。
(サクレ・クール寺院)
1873年、フランス国民議会は、普仏戦争の戦没者を慰霊し、国家の救済を祈願する新しい教会をモンマルトルの丘に建設しようというカトリック議員の提案を賛成多数で可決した。この年は反動の嵐が吹き荒れた1年で、保守的共和派のティエール大統領が罷免され、保守派のマクマオン元帥が大統領にえらばれたばかりか、共和政の廃止と王政復古が国民議会で決議されるほどに守旧派の勢力が強くなっていた。モンマルトルはパリを見下ろす一番高い丘である上に、「殉教者の丘」という意味なので、たしかに救国の教会の立地としては最高だった。だが、一方では、パリ・コミューンの際、叛徒が立て籠もって全滅した場所でもあったので、左派からは、ここにサクレ・クール寺院を建設することはコミューンの犠牲者を冒瀆するものだという非難があがった。
1889年のパリ万博会場の絵葉書
建設中のサクレ・クール寺院
サクレ・クール寺院
エッフェル塔
ジャン・ベロー「ラ・マルセイエーズ」1880年 個人蔵
ベローは革命記念日が正式に発足した1880年7月14日を記念してこの作品を描いた
ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」ルーヴル美術館
「自由の女神」=「マリアンヌ(Marianne)」 フランス共和国を象徴する女性像
「マリアンヌ」レピュブリック広場 パリ 1883年設置
ジュール・ダル「共和国の勝利」ナシオン広場 パリ
「自由の女神像」ニューヨーク
フランス政府広報のロゴマーク
ジョルジュ・クレマンソー 1879年頃
レオン・ボナ「ジュール・フェリー」1888
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