「ルノワールの女性たち」21 モデル③アリーヌ・シャリゴ(2)

 ルノワールの長かった青春時代は、ついに40代半ばにして、実人生においても、芸術においても終わりを告げる。1885年、ルノワールは44歳の時、アリーヌはピエールを産んだ。ルノワールは頻繁に旅をする画家だったが、それ以後、多くの場合彼はアリーヌと幼子を連れて出かけた。その年の秋、家族はアリーヌの故郷エッソワに初めて滞在する。ルノワールはここがすっかり気に入り、後にはここに家を買い、第二の故郷になるのである(晩年には南フランスのカーニュにも家を買う)。

 二人が結婚したのは1890年のこと。ルノワールはロートのような親しい友人には、早くからアリーヌを紹介していたし、同じように籍を入れないまま子供をもうけたセザンヌとは、家族ぐるみで付き合った。しかし、もっと上層のブルジョワジーに属する親友たち、自宅でサロンを開くような女流画家のベルト・モリゾ、詩人のマラルメらには、結婚するまでアリーヌや子供のことを隠していた。ルノワールの家庭は、温かい雰囲気だったが、芸術論が交わされるなどというものではなかった。ルノワールにとって、家庭は生活の場であって、それ以外ではなかった。そして、彼は家族に対する愛情に満ちていた。1894年には次男ジャンが産まれ、1901年には三男クロードが産まれた。

 ルノワールの絵画にも大きな変化が現れる。1883年の《ブージヴァルのダンス》の三部作、85年頃に完成した《雨傘》を最後に、ルノワールの絵画から「現代生活」の表現が姿を消し、同時に新鮮な恋愛の表現が影をひそめる。そして、アリーヌやピエールを描き込んだ《母と子》、《牛飼いの娘》などでは、舞台は都会ではなく、逆に「田舎」風が強調されるようになるのである。

 後期のルノワールが打ち込んだヌードにしても、あまりに我々の世界から隔たった、架空の、無時間的な地点に入るように見える。かつてルノワールが描いたのは、自分のまわりの世界であり、現実の恋人や友人たちだった。我々見る者も、その中に飛び込んでいくことができそうだった。しかし今や、画家も、我々も、この美しい裸体を、抽象的な存在として見ているのである。ルノワールはもはや、現実の、その時その場での個人的な思いを芸術に込めるのではなく、芸術の世界の中でいつまでも風化しない「結晶」をつくることをめざすようになったのである。

【作品38】「アリーヌ・シャリゴの肖像」1885年頃 フィラデルフィア美術館

 ルノワールが自分の妻に寄せる真の賛美は、この単純で優雅な彼女の肖像画にあふれている。彼女は簡素な服を着て、自分の運命を幸福に感じるかのように微笑んでいる。黄色と青の調和が、衣服から背景へと呼応してゆき、晴れやかな雰囲気を作り出している。この調和が、やわらかに震えるようなリズムで大気を満たし、そこからアリーヌの心安らぐ視線が発せられている。これはルノワールのアリーヌへの最高の賛辞ともいえる作品であり、ルノワールはこの肖像画を死ぬまで手元に置いていた。

【作品39】「母と子」1886年 セントピーターズバーグ美術館

 妻アリーヌと長男ピエールが、くっきりとした輪郭線で描かれ、背後に広がる風景から浮かび上がっている。乾いた筆致は、まるでフレスコ画の様である。ルノワールは、ほぼ同じ大きさ、ほぼ同じ構図の3枚の油彩画で、「母と子」というテーマを扱った。イタリア旅行で目にしたラファエロの聖母子像から着想を得たのであろう。

【作品40】「ルノワール夫人」1910年 ワズワース・アテネウム美術館

 当時の写真と比較してみると、ルノワールがアリーヌを美化することなく描いているのがわかる。彼は色づかいを赤、黄、白に統一して表現の極度な簡素化を行っている。膝の上で丸くなっている子犬のボブに凝集された、アリーヌのあたかも庇護するかのような仕草に、母として子を抱いた過去への郷愁じみた慰めの思いがうかがえる。

1885「アリーヌ・シャリゴー」

1886「母と子」セントピーターズバーグ美術館

1910「ルノワール夫人とボブ」ワズワース・アテネウム美術館

1896「画家の家族」。

モンマルトルの自宅前にいる家族を描いた作品。左から長男ピエール、妻アリーヌ、次男ジャン、家政婦ガブリエル、隣家の娘

1901「エッソワの風景、早朝」ポーラ美術館

0コメント

  • 1000 / 1000