「ルノワールの女性たち」20 モデル③アリーヌ・シャリゴ(1)

 ルノワールは1878年、後の妻アリーヌ・シャリゴと出会う。当時ルノワールは38歳、アリーヌは20歳だった。彼女が初めてルノワールの絵に登場するのは、《シャトゥーの舟遊び》であり、続いて翌年の《舟遊びの昼食》に、子犬を抱いた姿を見せている。翌1881年、ルノワールはイタリア旅行の一部にアリーヌを同伴し、ナポリ湾の小舟の上で《水浴の女》を描いた。

 アリーヌ・シャリゴは1859年に、フランス北東部にあるエッソワという小さな町で生まれた。父はパン屋、母はお針子をしていた。しかし両親の結婚生活は長続きせず、父は母子を捨ててアメリカに移住し農民となる。母子はその後パリに出、アリーヌはやがて母から裁縫を習って、モンマルトルの婦人服のアトリエに働くようになる。彼女は、ルノワールが好んだ典型的なモンマルトルっ娘だったのである。ただし打算的な都会の娘にはない彼女の純真さは、ルノワールの心を虜にした。《舟遊びの昼食》の舞台となったシャトゥーのレストラン・フルネーズには、実際に二人してよくでかけたという。

 ふたりはすぐに一緒に生活を始めるが、ルノワールはそのことを友人たちには隠していた。アリーヌは物事を複雑には考えない。葡萄が葡萄酒のために生まれたように、ルノワールは描くために生まれた人間であることをよく知っていた。一方、彼女にとって、子どもを生んだり、その世話に夢中になることのない生活は考えられない。ルノワールにとっても、まったく新しい生活が始まった。アリーヌは、「よく分からなかったけれど、あの人が絵を描くのを見ていたら、うっとりとしてしまったわ」と後に息子ジャンに語る。一方ルノワールは息子に、「お前のお母さんには全然下品なところがなかった。それにセンチメンタルにならなかった」と語っている。彼女は自分にできること、できないこと、しなくてはならないことをよくわきまえ、気取らず自然だった。だから二人は、芸術の世界ではなく、生活の中で理解しあえる夫婦になったのである。

 ところで、ルノワールは生涯にわたって「風景のなかの裸婦」という題材により、生命の輝きを表現しようとした。修業時代から《ディアナ》(1867年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー)のような作例があるが、本格的に取り組み始めたのは、40歳を迎えた1880年代から。きっかけは、1881年から82年に、アリーヌ・シャリゴと訪れたイタリアでの体験だった。ローマではルネサンスの巨匠ラファエロの作品に感銘を受け、ナポリではポンペイの壁画に圧倒された。ルノワールは、それまで軽視しがちだった古典的な絵画の偉大さに改めて気づかされた。

【作品36】「ブロンドの浴女」1881年 クラーク美術館

 1881年、イタリア旅行中のカプリで描かれたこの作品は、ラファエロの発見と、ルノワールが体験していた美学上の危機の結果として誕生した。この作品と、1876年の第2回印象派展出品の《習作・陽光を浴びる裸婦》と比較すると、その間の画風の変化は一目瞭然だ。後者では木洩れ日の下のぼやけた輪郭をモチーフにしているが、この裸婦は、輪郭も明確であり、肉感豊かな堂々たる存在だ。さらに構図を簡素化され、見る者の注意を人物像に集中させる。

 アリーヌは、この旅行が一種の新婚旅行だったと語っている。裸婦の指に光る金色の指輪が、二人の関係を想像させる。浅瀬の岩に腰を下ろした姿をとらえるために、ルノワール自身は、海に浮かべた舟の上からこの作品を描いた。裸婦の白い肌は、イタリア古典絵画の影響と考えられる。しかし、地中海の明るい陽光の下で、実際に彼女の肌は白く輝いていたのかもしれない。

【作品37】「座る浴女」1883~84年頃 フォッグ美術館

 ルノワールは、1883年9月に、アリーヌ・シャリゴらとともにノルマンディー沖の保養地、イギリス領ガンジー島を訪れ、1か月ほど滞在した。そのときの素描をもとに、パリでこの作品を仕上げたと考えられている。「ブロンドの浴女」(1881年)と比べると、数年のあいだで、人物の輪郭がより明確になったことがわかる。

1882「ブロンドの浴女」クラーク美術館 ウィリムズタウン

1883~84「坐る浴女」

1867「ディアナ」ワシントン・ナショナル・ギャラリー

1876「陽光を浴びる裸婦」習作

1879「シャトーの舟遊び 立っている女性がアリーヌ・シャリゴ

1881「ボートに乗るカップル(アリーヌ・シャリゴとルノワール)」ボストン美術館

1881「舟遊びする人々の昼食」

1881「舟遊びする人々の昼食」部分 アリーヌ・シャリゴ

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