「ルノワールの女性たち」12 画商①ポール・デュラン=リュエル(2)

 ジャン・ルノワールは、ルノワールにとってポール・デュラン=リュエルの存在がいかに大きかったかを次のように記している。

「われわれの話には、ポール・デュラン=リュエルという名前は絶えず出てきた。「デュランじいさん」は勇敢だ、デュランじいさんは大変な旅行家だ、それにまたデュランじいさんはこちこちの信心家だ等々。ルノワールはこの特徴を是認していた。

「サロンの連中に革命的とか言われているわれわれの絵画を守るためには、反動家がひとり必要だったのさ。彼は少なくともコミューンの一派として銃殺されるような危険は冒さなかったからね!」

 だが、大抵の場合、彼はただこう言った。「デュランじいさんは、いい人だった!」その後、ヴォラールが彼の生活に登場することになったし、ベルンハイム商会や、ベルリンのカッシーラーや、他の多くの大画商たちも現れた。これらの人びとは、金を儲けることよりも、自分たちの信ずる新しい絵画形式に世間の注意を惹くことに夢中になっていた。ポール・デュラン=リュエルはその最初の人間だった。「彼がいなければわれわれは生きのびられなかっただろうね。」ルノワールがこう言った時、彼は芸術の生存ではなくて肉体の生存のことを考えていたのだ。」(ジャン・ルノワール『わが父ルノワール』)

 第4回印象派展に、ルノワールは参加しないことに決め、サロンに出品しようとした。サロンへの出品は、旧「印象派」のメンバーの行動としては、きわめて明瞭な態度の変更を意味する。前年からサロンへの出品を再開したルノワールに、ドガは「奴は必要なら安酒場の奥にも絵を並べるだろうね」と非難したが、ルノワールは「君がそうすれば群集が酒場に押し掛けるだろうけれど、ぼくがそんなことをしても、見に来るのはせいぜい召使いや御者ぐらいだろう」とかわした。第一回印象派展から、ルノワールには「サロンに対抗する」といった攻撃的な考えはなかった。ただ全力を尽くして絵を描きたいだけである。ドガ以外の仲間は、そんなルノワールの真意を知っていたので寛大だった。

 しかしルノワールは、印象派の同調者であった画商デュラン=リュエルには、率直に弁明しておく必要があると考えたようだ。1881年3月、北アフリカへの旅行中にアルジェから彼にこんな手紙を書いた。

「私がなぜサロンに出品するのか、ご説明してみたいと思います。パリには、サロンに出品していない画家を好む愛好家は15人もいないでしょう。そしてサロンに出していない画家には鼻も引っかけない愛好家は8万人もいます。だから私は毎年、たった2枚ですが、肖像画をサロンに送るのです。それに、出品先によって絵の価値が下がると考えるほど、マニアックになりたくありません。一言で言えば、サロンを毛嫌いするヒマさえ、私には惜しいのです。そんなポーズをとることすら面倒です。最高の絵を描くことが肝心。それだけです。私が自分の芸術を軽んじ、野心から自分の芸術理念を犠牲にしてもサロンに出品したのなら、批評家の非難も理解できます。でも実際はそうでないのですから、何も言われる筋合いはありません。毎度のことですが、私は今、よい作品を描くことしか頭にありません。・・・友人たちにも、私の立場を説明してやってください。私がサロンに出品するのは、全く経済的な理由からです。」

【作品19】「縫い物をするマリー・テレーズ・デュラン=リュエル嬢」1882年 クラーク美術館 ウィリアムズタウン(アメリカ)

 日常の家事に従事する女性の姿は、ルノワールが繰り返し好んで描いた主題であったし、画家はそこに溌溂とした美しさを見出し讃えていた。縫い物はブルジョアの娘たちのたしなみとされていて、上手にできなければならないものだった。彼女の表情は真剣そのものである。緑に囲まれた家の庭にいるのだろう。おしゃれな帽子をかぶった横顔や指先ははっきりと描かれているが、髪や衣服は光を浴びて様々な色に輝いている。

【作品20】「かぎ針編みをする少女 」1875年頃 クラーク美術館

 薄暗い部屋で美しい金髪の少女にやわらかな日が差し込み、はだけた肩は真珠色に輝いている。編み針に集中する彼女は口元にうっすらと微笑みを湛えてまるで、祈りのように静謐で敬虔な美が漂っている。

 クラーク美術館の創設者であるスターリング・クラークは、祖父であるエドワード・C・クラーク(シンガーミシンの設立者)からの莫大な遺産で妻、フランシーヌ・クラークと共に印象派を中心とする名画を買い集めたが、最初に購入したのは1916年のこと。記念すべき一枚目の作品がこのルノワールの「かぎ針編みをする少女」(1875年頃)だったそうである。

【作品21】「縫い物をする若い女」1879年 シカゴ美術館

 これは、ポール・ベラールの別荘に滞在中に描かれたが、モデルの正体をルノワールは明らかにしていない。つまり注文を受け制作した肖像画の類ではなく、ルノワールの視点がとらえた日常の一場面を切り取った作品である。注文を受けた肖像画と比べ、より軽やかに、のびやかに筆が躍っている。

1882「縫物をするマリー・テレーズ・デュラン・リュエル嬢」

1879年「縫い物をする若い女」 シカゴ美術館

1866「縫い物をするリズ」ダラス美術館

1875頃「かぎ針編みする少女」クラーク美術館 ウィリアムズタウン アメリカ

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