「ルノワールの女性たち」11 画商①ポール・デュラン=リュエル(1)
革命以前には国王と宮廷画家に代表されるように、画家は絶対的な力を持つパトロンとの直接的な関係の中で生活を保障された。「近代」という新しい時代を迎え、画家たちは制作の自由を手にしたものの、一方では自分たちの作品を購入する層を開拓しなければならなくなった。そして画家たちと新しい購買層を仲介する働きを担ったのが画商だった。
ルノワールたち若い画家は1873年に「画家、彫刻家、版画家等、美術家の共同出資会社」を設立し、翌年に第一回のグループ展(いわゆる「第一回印象派展」)を開催したが、これもサロンに反旗を翻すといった趣旨ではなく、作品を販売することが第一の目的だった。もっとも、彼らの目的はかなわず、共同出資会社も解散することになる。印象派の展覧会は1876年に第二回展が開かれるが、その会場はデュラン=リュエル画廊だった。
ポール・デュラン=リュエルは1870年代初め頃から、まだ無名に近いルノワールたちの絵を扱い始め、グループ展や個展の開催などを通して、購入者を開拓していったが、後にこう語っている。
「ルノワールやモネを激賞する私を見て、なんと常識の欠けた奴だということになったのです。私が公然と侮辱されるのはほとんど避けられませんでした」
1865年にポール・デュラン=リュエルが画商だった父の後を継いだ当時、今日知られているような美術業界はほとんど存在していなかった。デュラン=リュエルがこの道の先駆者になったのは、何よりも世論から無視されていた画家を評価する力があったからだが、また自分の「抱える」画家たちを擁護するために営業上の作戦を次々に実行したからでもある。たとえば公開の売り立てでの買い支えや、特別展の開催、資料の出版、国内外の新しい愛好家たちの開拓などだ。
ルノワールとの出会いは1872年。最初に購入した作品は「ポン・デ・ザール」(186年 ノートン・サイモン美術館 パサディナ アメリカ)とされる。翌年にはルノワールの最初の個展を開催しているが、彼はフランス国内だけではなく、イギリスやアメリカでも印象派の作品の展示を行い、積極的に売り出した。
ルノワールはモネ、ドガ、シスレー、ピサロなどと同じく他の画廊とも取引関係にあったが、おそらくルノワールが一番デュラン=リュエルに誠実だっただろう。最後まで彼に真っ先に作品を見せていた。ルノワールは生涯、デュラン=リュエルの助力に感謝し、彼の息子たちを家族同然にみなしたという。
【作品17】「ジャンヌ・デュラン=リュエル嬢」1876年 バーンズ・コレクション メリオン(アメリカ)
画商ポール・デュラン=リュエルは、ルノワールの作品を買い上げるほかに、自分と家族の肖像画も依頼した。ジャンヌはポール・デュラン=リュエルの次女。わずか6歳の少女は、縞模様のドレスに緑のサッシュベルト、ブーツのいでたち。モデルの個性や人となりを表しつつも背後の花模様の壁紙と相まって、少女が持つ、はにかみ、か弱さ、柔らかさ、透明感などの普遍的な性質をもとらえている。
【作品18】「ポール・デュラン=リュエルの娘たち(マリー・テレーズとジャンヌ)」1882年 クライスラー美術館 ノーフォーク(アメリカ)
この作品は夏に氏の別荘に招かれ、彼の5人の子供たちを陽光の下で描いたうちの1枚。右の少女は12歳になったジャンヌ。マロニエの木のある庭のベンチでくつろぐ様子を、印象派の手法を用いつつ描いている。
1876「ジャンヌ・デュラン・リュエル」バーンズ・コレクション
1882「ポール・デュラン・リュエルの娘たち」
「ポール・デュラン・リュエルの息子シャルルとジョルジュ」1882年 デュラン・リュエル画廊
これはポール・デュラン=リュエルの5人の息子のうちの2人で、シャルルは1865年に生まれ、ジョルジュはその1歳年下で、その後ジャン・ルノワールの名親になる。場面は一家のディエップの別荘の庭。2人の服の繊細な光沢から短いタッチで描かれた背景の花の色まで、ルノワールの技巧のさえが見られる。
1910「ポール・デュラン・リュエル」
ポール・デュラン=リュエル 1910年
ユーグ・メルル「ポール・デュラン=リュエル」1866年
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