「ルノワールの女性たち」13 画商②アンブロワーズ・ヴォラール

 アンブロワーズ・ヴォラール【1866~1939】は、フランスの公証人の息子として生まれ、モンペリエ大学とパリで法学を学ぶ。その後版画に夢中になり、法学部での勉学を捨てて、名もない画商の店で商売の初歩を学び、やがてパリの絵画市場の中心、ラフィット街で画廊を構えるようになった。当時まったく無名だったゴーギャンやヴァン・ゴッホの作品を売るかたわら、1895年に最初のセザンヌ展を催して業界にデビューした。彼の趣味はときに判然としないが、忠告に喜んで耳を傾け、それを自分の商才と組み合わせることによって成功を手にした。セザンヌを見出したのも、ピサロの首長を聞き入れてのこと。

 ヴォラールがルノワールと知り合ったのは、1894年に彼がまだ駆け出しの画商だった当時、マネのある絵に関してルノワールに問い合わせたのがきっかけだったという。ルノワールはマネ未亡人、モネ、ドガ、ピサロと同じくヴォラールにまず小品の販売を委託し、それから継続的な関係を結んだ。絵を見せた時のヴォラールの態度が気に入ったようだ。

「ほかの連中は自分の意見を述べる前に理屈を言ったり、あれこれ比較してみたり、芸術の歴史をすっかり述べ立てたりするんだ。ところが絵を前にしたあの若者の様子ときたら、まるで獲物を前にした猟犬だったね。」

 以後ヴォラールの伝説的な画廊には、埃まみれのショーウィンドーの背後に、いつもルノワールの作品が他の作品と重ねて壁に立てかけてあった。フランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、日本からの顧客たちが、それらに高額の値段を払うようになっていた。

 ヴォラールは、画家の生前に図版入りの資料を作成しようとした。これは当時としては新し試みだったが、それだけルノワールの贋作が多く出回っていたのだろう。また、彼はルノワールを説き伏せて、リトグラフや彫刻の制作を試みさせた。ヴォラールは手が不自由になったルノワールのために、スペインのカタルーニャ生まれでマイヨールの教え子だった若い彫刻家リシャール・ギノを協力者として連れてきた。ルノワールが細い棒でギノに指示を出すスタイルの共同制作は、1918年まで続けられ、数多くの作品が残された。2人の呼吸はぴたりと合い、喜びを包み切れないルノワールはヴォラールにこう言う。

「どうだい、ヴォラール。まるで杖の先っぽに私の手がついているみたいじゃないか・・・」

 ヴォラールは1894年にルノワールに会い彼の伝記を書いたが、それは1918年に出版されている。ルノワールはしばしば面白がってヴォラールに誤ったつくり話を伝えたので、彼の伝記の中で伝えられている話のいくつかは実際には起こらなかったと、ルノワールの友人たちは主張している。


リシャール・ギノと共作「勝利のヴィーナス」1914年 プティ・パレ美術館 パリ

リシャール・ギノと共作「大きな洗濯女」1917年 オルセー美術館

1908「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像」コート―ルド美術研究所 ロンドン

セザンヌ「アンブロワーズ・ヴォラール」1899年 プティ・パレ美術館 パリ

ピカソ「アンブロワーズ・ヴォラールの肖像」1910年頃 プーシキン美術館 モスクワ

ボナール「アンブロワーズ・ヴォラール」1904年頃 ビュールレ・コレクション

アンブロワーズ・ヴォラール

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