「ルノワールの女性たち」5 麗しき女優達①「アンリオ夫人」

 駆け出しの画家だったころ、上流階級の人々の目に留まって注文がくることを期待しつつ、ルノワールは売り出し中の若い女優たちを描いた。アンリオ夫人ことアンリエット・アンリオは、そんな1870年代のルノワールのお気に入りのモデルとしてしばしば登場する。彼女はルノワールのサン・ジョルジュ街のアトリエから、歩いて10分ほどのところに母親と二人で暮らしていた。彼女は少なくとも11点の油彩画に描かれている。

 当時、劇場は着飾った婦人が男性と出かける社交の場であった。パリ市内には国立あるいは準国立の「オペラ座」「コメディー・フランセーズ」「オペラ・コミック座」「オデオン座」などや、私立の「ジムナーズ座」「ヴァリエテ座」など実に多くの劇場があり、演劇活動もまた盛んであった。アンリエットは、メロドラマのメッカであった「アンビギュ・コミック座」に1875年の秋、まず端役として登場。その後、「オデオン座」、「ジムナーズ座」等の舞台に立ち、1877年に演出家アンドレ・アントワーヌが創設した前衛劇場、「自由劇場」で主演女優をつとめるなど活躍した。

 「夫人」と呼ばれているが、アンリエットは生涯、結婚はしていない。1878年、アンリエットは21歳で娘のジャンヌを出産。父親はコメディー・フランセーズの元スター俳優で、そのとき68歳だったという。彼女はシングルマザーとしてジャンヌを育てる。ジャンヌは「ジャンヌ・アンリオ」という名で、1899年に「コメディー・フランセーズ」の準座員になった(女優としての才能は、娘のジャンヌの方が恵まれていたようだ)が、悲劇が起る。1900年、劇場の火事に巻き込まれ、知らせを受けたルノワールが煙の充満した中を探しに行ったにもかかわらず亡くなってしまったのである。22歳を目前に控えた愛娘を失った悲しみから、アンリエットは間もなく演劇の世界から引退してしまった。そして生涯その痛手から立ち直ることはできず、それでも1944年まで生きて、サン・ジェルマン・アン・レーで87歳の生涯を閉じている。

【作品8】「アンリオ夫人」1876年頃 ワシントン・ナショナル・ギャラリー

 ルノワールが数多く描いた肖像画の中でも、特に気に入っている作品である。こちらを見つめる黒く大きな瞳とキリッとした弓なりの眉、優雅な微笑み、ピンク色の柔らかな美しい顔立ちと肢体、背景に溶け込むような透明の光に満ちた白いイヴニングドレス。描かれているアンリエットは、身体をぴったりと包む、やわらかな感触の白いドレスを身につけ、デコルテ(大きく開いた襟あき)の豊かな胸に花を飾り、首にチョーカー(優しくモデルの端正な顔を強調している)を巻いている。これは、当時流行していたイヴニング(夜会服)の装い。「白に白を重ねて描くのは、ひどく難しいんだ」とルノワールは画商のヴォラールにこぼしたというが、ドレスの白と彼女の乳白色の肌がまぶしいほどに反響する効果が素晴らしい。画面に薄い流れるような色層を広げ、またすべての影を薄く、ほとんど見えないくらいに描いて、最大の明るさを得ることに成功している。暗い色調はわずかに茶色の眼と睫(まつげ)、赤い唇それに金褐色の髪だけである。パリの最新流行の白いドレスと白い肌を大胆なタッチで描いているものの、顔は丁寧に表現されており、彼女のかわいらしさを引き立てるような描き方をしている。あまり多くの色を使っていない作品なだけに、ルノワールの上手さが引き立つ作品である。

【作品9】「男装したアンリオ夫人」1875年頃 コロンバス美術館 オハイオ州

 舞台で男役を務めるアンリエット。他の多くの作品が「キュートなパリジェンヌ」という感じであるのに対し、この作品では「女優」としてのアンリオ夫人が描かれている。

1876「アンリオ夫人の肖像」

1875頃「男装したアンリオ夫人」

1876「アンリオ夫人の肖像」

アンリエット・アンリオ

ジャンヌ・アンリエット 1894

1900年3月18日 火事にあって運ばれるジャンヌ・アンリエット

1881「青い帽子の少女」  モデルは幼いジャンヌ・アンリエット


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