「ルノワールの女性たち」6 麗しき女優達②ジャンヌ・サマリー

 アンリエット・アンリオ(「アンリオ夫人」)以外にルノワールの大のお気に入りの女優がもうひとりいる。コメディー・フランセーズ(1680年に結成された、フランスを代表する劇団。当初は王立で後に国立となった。「コメディー」は「演劇」、「コメディアン」は「俳優」を意味する)の専属女優だったジャンヌ・サマリー(1857-1890)。七月王政期(ルイ・フィリップ時代 1830年―1848年)の偉大な女優を祖母に持ち、父親はオペラ座のチェリストという芸術一家に生まれた彼女は、フランス国立高等演劇学校で3年間演劇を学んだのち、1874年にコメディ・フランセーズに入り、モリエールの喜劇『タルチュフ』の重要なわき役である、小間使いドリーヌ役でデビューした。

 ルノワールは、シャルパンティエ夫人のサロンで、デビューしたばかりの彼女と出会った。ストロベリー・ブロンドの髪とつやのある肌、いきいきとして肉感的なジャンヌ・サマリーは、1880年に結婚するまで両親の家に住んでいた。そこからルノワールのアトリエまではわずか200mの距離。コメディー・フランセーズの劇が好きでなかったルノワールは、純粋に彼女のモデルとしての魅力にひかれ、何度も描いたのである(ルノワールは舞台のジャンヌは描かなかった)。むっちりした体となめらかな肌を持つ彼女は、まさにルノワールの好みの女性。ルノワールは彼女の素晴らしい肌やいたずらっぽい微笑の虜になる。その家で作品を制作させてもらえるよう彼女の両親に頼み、数週間、毎日のように昼過ぎに彼女を訪ね、2時間だけポーズをしてもらい、10点もの作品を仕上げた。結婚の話は一度も出なかった。ジャンヌはこんなコメントを残している。「あの人は、自分が描くすべての女性と結婚しているのよ・・・絵筆でね」

 裕福な株式仲買人の息子ポール・ラガールと結婚式をあげた際には、絵入り新聞で大きく報道(新郎の両親から反対され、彼らのロマンスは世間の注目を集めた)されるほど大スターだったジャンヌ・サマリーの肖像画を描くことは、そのころから生まれつつあったルノワールの名声に寄与することになる。もちろんルノワールだけが利益を得たわけではない。新進女優にとっても、サロンに出品される肖像画は格好のPR材料だった。写真と比べるとよくわかるが、実物よりも圧倒的に美しくなるルノワールの魔法の筆で描かれるなら、なおさらだろう。結婚後3児の母となったジャンヌは、1890年に腸チフスのため33歳で急逝。葬儀には2000人以上が参列した。

【作品10】「ジャンヌ・サマリー」1877年 プーシキン美術館 モスクワ

 彼女をモデルに制作された多数の作品の中でも特に有名であると同時に、ルノワールの印象派時代の肖像画の中で最も美しいと評されている。ルノワールは微笑みながらもの思いにふけるジャンヌを描いている。胸元の開けた青いドレスをまとい、左手で軽く頬杖をつくジャンヌの表情はさながら夢を見ているかのようである。背景に塗られた濃淡のあるピンクが、若く美しいジャンヌの微笑みと共鳴している。ルノワールは軽やかなタッチで彼女の柔らかく肉付きのよい肌や髪を形作り、寒色系の色を加えることでジャンヌを立体的に捉えようとしている。そして彼女の陽気な性格と、柔らかな優雅さ、青い瞳にわずかにうかがえる茶目っ気を含んだ視線、「周りのすべてを照らす」輝く笑顔、といった彼女の特徴を強調し、可愛らしさと上品さを備えた女性として描いている。

 この肖像画が1877年の第三回印象派展に展示された時、作家エミール・ゾラは「永遠の笑みを浮かべる金髪の肖像は、本展覧会の成功作品」と評した。ただし、ジャンヌ・サマリー自身はルノワールが彼女の期待に反して、女優としての社会的および職業的名声ではなく夢のような側面を強調し、ルノワールが観客として彼女をどう見ていたかを知って落胆したと言われる。

【作品11】「ジャンヌ・サマリー」1878年 エルミタージュ美術館

 これは最高の魅力を放つ作品である。女優は立ち姿で、白い手袋をした両手は前で組まれている。白のデコルテを着ているが、これは胸の線を強調する。スカートの裾は長く、そしてフリルで縁取られている。また背景に壁掛けや絨毯、植木鉢が豊かに描き込まれており、そうしたモティーフを描写することへの、当時のルノワールの興味がうかがえる。

1877「ジャンヌ・サマリー」

1878「ジャンヌ・サマリーの立像」

ルイーズ・アベマ「ジャンヌ・サマリーの肖像」1879年 カルナヴァレ美術館

ジャンヌ・サマリー 写真に基づく版画

1877年頃に撮影されたジャンヌ・サマリー


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