「宗教国家アメリカの誕生」20 アメリカ独立戦争(3)独立宣言②

 1776年7月4日、主にトマス・ジェファソンの起草による「独立宣言」が採択された。これは、新たな国家の誕生を宣言するだけでなく、後に全世界で強力な活動力となる人間の自由の哲学を打ち出したものだった。独立宣言は、フランスおよび英国の啓蒙主義の政治哲学を基盤としていたが、特に大きな影響を与えたのは、ジョン・ロックの「統治二論」である。ロックは、英国人の伝統的権利の概念をとりあげ、それを全人類の自然権として普遍化した。この独立宣言は、革命の理論を述べた部分(前文)、国王ジョージ3世の「悪行と簒奪」を28項目にわたって列挙し断罪した部分(本文)、本国からの分離・独立は唯一残された道であるとする部分(結語)の三部からなっていたが、前文には、アメリカの建国理念を示すものとしてしばしば引用される有名な言葉がある。

「我々は、以下の真実を自明なものと見なす。すなわち、すべての人間は平等に創られ、その創造主によって、生命、自由、そして幸福の追求を含む、奪うことのできない一定の権利を与えられている。これらの権利を確保するために、人々の間に政府が設けられ、その正当な権限は被統治者の同意に由来する。いかなる形態の政府であれ、これらの目的にとって破壊的となるときには、それを改変ないし廃止し、最も人民の安全と幸福をもたらすのにふさわしいと思われる諸原則に基盤を置き、またそのような形で権限を組織するような、新しい政府を設立することが、人民の権利である」

ジェファソンは、ロックの諸原則を直接、植民地の状況に当てはめた。アメリカの独立のために戦うことは、「我々の政体と相容れず、われわれの法律によって認められていない法域に、我々を従わせるために他人と結託してきた」国王による政府に代わって、人民の同意に基づく政府を求めて戦うことだった。生命、自由、および幸福の追求という自然権を確保することができるのは、人民の同意に基づく政府だけだ、というのである。かくして、アメリカの独立のために戦うことは、ほかでもない、自らの自然権のために戦うことだったのである。

 独立宣言は、イギリスの大艦隊がニューヨーク沖に到着した中で採択されたため、本国に対しては宣戦布告、各植民地に対しては臨戦態勢づくりの要請を意味した。革命の帰趨は戦局によって左右されることになる。独立革命とは、軍事面からすれば寄せ集めの13邦が、当時最強のイギリス軍に果敢に挑んだ戦い、つまり独立戦争に他ならない。両者の力の差から見て、アメリカ側が軍事的に勝利を収める可能性は必ずしも高いとは思われなかったが、軍事的勝利なくして、革命の成功は見込めなかったのである。アメリカ植民地軍(大陸軍)はにわか作りで、その規模は平均して1万人前後、常に兵員や物資の不足に悩まされ続けた。他方、本国は18世紀最大規模の軍を動員し、さらにドイツからも傭兵部隊を送り込んだ。アメリカ植民地軍の努力だけでは、イギリス正規軍を打ち破ることは不可能だったが、その弱点を、外国からの援助(とくにイギリスと覇権を争っていたフランスからの援助)と、個人的に参加した外国人義勇兵の存在が補った。

 当時ヨーロッパでは12年間平和が続いていたために、失業中の多数の職業軍人がアメリカに来て植民地軍のために戦った。特にフランス貴族ラファイエット侯爵は勇敢で有能な指導者だった。しかし彼以上にアメリカ独立のために重要な貢献をした外国人は、プロシア貴族フレデリック・フォン・シュトイベン男爵だろう。彼の専門は、ワシントンがもっとも頭を悩ませていた問題、すなわち兵隊の訓練であった。彼の指導のもと、最初は経験の乏しいにわか兵士の集団であった植民地軍も、やがて訓練と経験を積んで規律ある軍隊となった。

 それでも植民地軍の勝利には、フランスの援助は不可欠だった。1777年10月、植民地軍は「サラトガの戦い」に勝利する。この勝利は、アメリカ独立戦争の一つの転機となった。それは、アメリカ軍がその訓練や給与は貧弱であっても、イギリス正規軍に十分対抗し得ることを立証し、またフランクリンの働きかけにもかかわらず躊躇していたフランスの参戦(1778年2月)を実現させたからである。

ジョン・トランブル「アメリカ独立宣言」アメリカ合衆国議会議事堂

   中央の背の高い人物がジェファーソン

アメリカ独立宣言

レンブラント・ピール「トーマス・ジェファーソン」ホワイトハウス

ジョセフ=デジレ・コート「ラファイエット将軍」ヴェルサイユ宮殿

「ラファイエット像」ラファイエット広場 ワシントンD.C.

チャールズ・ウィルソン・ピール「フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン」ペンシルベニア美術アカデミー

「フレデリック・フォン・シュトイベン像」ラファイエット広場 ワシントンD.C.

ジョン・トランブル「バーゴイン将軍の降伏(サラトガの戦い)」アメリカ合衆国議会議事堂

「サラトガの戦い記念碑」ニューヨーク州ビクトリー

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