「宗教国家アメリカの誕生」8 マサチューセッツ植民地(1)「丘の上の町」

 プリマスに上陸したピルグリムたちは、当初苦難を経験したが、その後は先住民の援助を受け、翌年の秋にはようやくトウモロコシなどの収穫を得て、先住民とともに数日にわたる盛大な「感謝祭」を祝ったとされる。この逸話は、その後さまざまな脚色を経てアメリカ国家の神話的な創設物語へと発展していった。プリマスでは地元のワンパノアグ族との交流が到着直後に始まっており、その後も40年ほど良好な関係が続いたが、「フィリップ王戦争」(1675~76年 ニューイングランド地方一帯を巻込んだインディアン諸民族連合軍とニューイングランド植民地連合軍との戦い。インディアン連合軍の指導者ワムパノアグ族の大族長メタカムがフィリップ王と呼ばれたことからこの名が出た。)後は、他の植民地と同様に敵対的なものとなってしまった。

 このプリマス植民地を人口でも経済力でも凌ぎ、ニューイングランド地域で支配的になったのは、マサチューセッツ湾植民地。ボストンという良港があったことが大きく寄与していた。この地の植民作業は、1630年3月、マサチューセッツ湾植民地会社の送った最初の一団が到着したことから始まる。同植民地の初代総督となるウィンスロップは、新大陸上陸前のアルベラ号上で「A Model of Christian Charity」と題する説教を行った。その中で、新大陸における彼らピューリタン(プリマスの「分離派」ピューリタンとは違って、英国国教会からの分離独立を認めず、その内部で改革浄化を求めた「非分離派」ピューリタン)のビジョンを次のように明確に述べた。

「我々の目的は、神に対しいっそうの奉仕をし、キリストによる恵みと繁栄が与えられ、キリストによる救いを全うするという神との間の盟約に基づいて、神聖なる共同体を建設することである」

 彼らが求めていたものは、必ずしもイギリスの圧制からの開放だけではなかった。彼らは、イギリスと袂を分かつのではなく、新天地アメリカで本国の手本となるような理想的な教会組織を建設しようとしていた。これによって、腐敗に満ちたイギリス社会を贖い、改革し、どちらの地においても、よきイギリスの復興をかなえることができると考えていた。つまり、全ての人々の手本となるような理想的で公正な社会を築くことを目指していたのだ。ウィンスロップは、それを「これから築く新しい共同体は、世界中の目が注がれる丘の上の町である」と表現した(『マタイによる福音書5章 14節』「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。」)。

「私たち10名が1000名の敵に対抗するとき、また神が私たちを誉れと栄光のものとし、後に人々がこれから建設される植民地について「主がニューイングランド(新しき英国)の植民地のようにつくられた」と言うようになるとき、イスラエルの神が私たちの間におられることを知るであろう。そのために我々は、全ての人々の目が注がれる「丘の上の町」とならなければならない。」

ウィンスロップにとっての「丘の上の町」は、こうした絶対的なキリスト教信仰に基づいた「神聖な神の国」だった。しかし、独立戦争以降20世紀にかけて、「丘の上の町」というフレーズは次第に宗教的概念から解き放たれ、より普遍的な「アメリカ建国の精神」に引き上げられていく。つまり、「丘の上の町」は、「神聖な神の国」から「進歩と自由と民主主義の理想的国家」へと呼び名を変え、しかもただの「丘の上の町」ではなく「輝ける丘の上の町」へと進化し、アメリカという国家の象徴、国民的信仰とも呼べるべきものとなっていった。

「今日、全ての人々の目はまさに私たちに注がれている。政府の全ての機関は、連邦、州、各自治体の全てのレベルにおいて「丘の上の町」とならなければならない。その町を構成しそこに住む者は、大いなる信頼と大いなる責任を備えていなければならない。なぜなら、我々が船出しようとする1961年の航海は、かつてのアルベラ号による1630年の航海に劣らない厳しいものだからである。」(1961年1月9日、大統領選挙で勝利したジョン・F・ケネディの就任前の演説)

 ウィンスロップの説教から400年近い年月を経た今日も、ピューリタンたちの目指した建国の理想は、アメリカ社会に生き続け、社会を動かす大きな原動力となっている。

ジェニー・オーガスタ・ブランズクーム「最初の感謝祭」

フィリップ王戦争

チャールズ・オズグッド「ウィンスロップ」ハーバード大学

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