「平戸・長崎三泊四日」13 10月6日長崎(8)勝海舟⑤

 万延元年(1860)1月22日、「日米修好通商条約」の批准書を交換するため、総勢77人の遣米使節を乗せたポーハタン号(1854年、吉田松陰が密航を企て海岸につないであった漁民の小舟を盗んで下田港内の小島からポーハタン号に漕ぎ寄せ乗船したが拒否された。また、1858年の日米修好通商条約はポーハタンの艦上で調印された)が横浜を出航した。この使節団派遣は、「ワシントンで批准書を交換する」という通商条約にある条文に基づいて行われたものだが、渡米を望んだのは幕府であった。幕府の人員にアメリカを実体験させ、アメリカの軍備や技術、制度などを吸収させようという狙いがあったからだ。

 実はこの時、幕府はもう1隻の船を用意し、ポーハタン号に先行してアメリカへ向かわせていた。その船こそが、幕府の蒸気船「咸臨丸」である。当初、老中ら幕府上層部は、幕府独自で船を派遣するつもりはなかった。時は「安政の大獄」の真っただ中、政情が不安定でそんな余裕などなかった。遣米使節はアメリカが用意してくれたポーハタン号で無事に送り届けてくれるだろうから、無理をしてまで幕府が独自に船を用意する必要などないと考えていた。

 しかし、外国奉行の永井尚志(なおゆき 長崎海軍伝習所の初代総取締)など、対外政策を担当する現場の役人らの判断は違った。彼らは老中たちに対し、「ポーハタン号に不慮の事態が起きた時に備え、幕府側でも随行艦を仕立て、任務を引き継げるようにしておくべき」と主張し、これを認めさせた。もっとも、これは表向きの理由にすぎない。真の狙いはこうだ。長崎海軍伝習所の総取締役でもあった永井や、長崎海軍伝習所で生徒監、その後軍艦操練所で教授方頭取を務めていた勝海舟らは、航海術を学ぶ士官たちに実際の航海の経験をさせ、その技量がどこまで通用するか試してみたいと考えていたのである。

 万延元年(1860)1月19日、96人の日本人と11人のアメリカ人を乗せた咸臨丸は浦賀を出航。出航してまもなく、日本人乗組員の自信は粉々に砕かれる。初めて体験する太平洋の荒波は想像以上の激しさで、並に翻弄される咸臨丸は激しく上下に揺れ、いつ転覆してもおかしくない有様だった。天候は最悪で、往路37日間のうち晴れ間がのぞいたのはたった数日。日本人乗組員はひどい船酔いにのたうちまわり、なかでも勝の船酔いは深刻で、航海中、船室から出てくることはほとんどなかった。さらに、夜間や悪天候の航海について学んでおらず、外洋に出るの初めての日本人乗組員たちの航海技術の未熟さも露呈された。

 こうした惨状を救ったのは、ブルック大尉らアメリカ人乗組員。ブルックは、通訳のジョン万次郎をパイプ役として、動ける数人の日本人とアメリカ人水夫たちを指揮し、咸臨丸の舵を取った。同時に、ブルックは日本人乗組員らに対し、航海技術や船乗りとしての心構えも指導した。このようなブルックの指導が功を奏し、サンフランシスコ(滞在は1か月ほど)から日本への復路では、5人のアメリカ人水夫が乗船したが、日本人だけで太平洋を横断することに成功した。勝は航海中ふがいない思いをしたが、咸臨丸での航海とアメリカ滞在は、技術、文化、社会制度など様々な面で日本が外国から遅れをとっていることを痛感させられ、その後の勝に大いに影響を与えた。

 ところで、勝とお久との関係だが、長崎海軍伝習所時代にお久は女児を産むが直ぐに死んでしまう。そして長崎で4度目の正月を迎えた1859(安政6)年1月、勝は江戸へ帰る。しかし5年後の1864(元治1)年2月23日、再び長崎を訪れる。前年の長州藩による外国船砲撃に対して、四国連合艦隊による下関砲撃の企てがあり、それを中止させるための談判のために長崎出張を命じられたのだ。福済寺(長崎市筑後町)に滞在した勝はお久と再会。4月4日には長崎を発って大坂へ戻るが、お久は12月6日男児を出産する。その2年後、お久は25歳で死去。長崎の聖無動寺で眠っている。勝は梅太郎を東京の家に引き取り、養育。梅太郎はその後、勝が支援した商業講習所(現在の一橋大学の前身)の初代校長ホイットニーの長女クララと結婚(できちゃった婚)。6人の子を産むが、勝の死後に離婚。クララは子供を連れて帰国し、後に『クララの日記』(講談社)が昭和51年に出版される。勝には蒼い眼の6人の孫がいた。

咸臨丸の行程図

鈴藤勇次郎「咸臨丸難航の図」

  万延元年(1860)の咸臨丸渡米渡航を描いた図

梅太郎とクララの一家(1900年)

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