「海洋国家オランダのアジア進出と日本」1 1600年 出会い

 日本とオランダの関係史について司馬遼太郎はこう書いている。

「日蘭交渉は関ヶ原のとしの慶長5年(1600)にはじまり、その後、江戸日本の鎖国のあいだ、幕府は長崎港において清国とオランダとのみ貿易をおこなってきた。鎖国された日本社会を一個の暗箱とすれば、針で突いたような穴がいわば長崎であり、外光がかすかに射しこんでいて、それがオランダだった。」(『街道をゆく35 オランダ紀行』)

 1600年の日本人とオランダ人の最初の出会いとは、豊後国(現大分県)にオランダ船リーフデ号が漂着した出来事のことである。まず最初に、リーフデ号が日本にやってきた経緯から見てみよう。

 オランダは新しい国家だ。スペインとの八十年戦争を戦い、ウェストファリア条約で正式に独立が認められるは1648年。スペインとの間に休戦条約が成立し,事実上の独立を達成した年でさえ1609年のことである。そしてそれまでバルト海地方や地中海地方などヨーロッパの域内に交易範囲がとどまっていたオランダは、すでに八十年戦争の最中、貿易機会を求めて東洋への航海に乗り出していく。主な要因は二つ。

 第1は1580年のスペインによるポルトガル併合。北部ネーデルランドの反乱側住民にとって、敵であるスペイン王権の統治下にポルトガルが組み込まれた以上、それまでのようにポルトガルを介してアジア物産を入手することは困難になる。こうして、スペイン・ポルトガルの妨害を受けない通商ルートの開拓が求められた。第2は1585年のスペイン軍によるアントウェルペン占領による、南部ネーデルランドからの移住者増大。南部ネーデルランドはほぼスペインに再征服され、再カトリック化が進んでいた。これを嫌った南部のプロテスタント住民は、裕福な商工業者たちを先頭に、資金とノウハウと通商網などを携えて北部諸都市、なかでもアムステルダムに流入する。世界商業を牛耳るための資力、知力、人力がこの地に結集したのである。

 その結果、北部ネーデルランド=オランダがスペインの軍事的脅威を脱した後の1595年から1620年にかけて、オランダ商人たちの活動範囲は、ヨーロッパ沿岸貿易から大洋を越える遠隔地貿易へと急速に拡大していった。オランダ人たちのアジアへ到達するための大航海は三つ。

①スカンディナヴィア半島以北の未知の北東航路の開拓②喜望峰経由の南東航路への参入

③南アメリカの南端を廻る南西航路への挑戦

 これらは、ほぼ同時期に実行されたが、このうち日本の歴史と深く関わるのは③。

 1598年、ロッテルダム貿易会社は5隻からなる商船隊を西廻り(マゼラン海峡経由)でアジアへ派遣した。この5隻の船名は「ホープ」(希望)、「リーフデ」(愛)、「ヘローフ」(信仰)、「トラウ」(信義)、「ブレイデ・ボートスハップ」(福音)。どの船も輝かしい船名を持っていたが、その航海の結末は希望のない無慈悲なものだった。「ヘローフ」号は途中で航海続行を断念して母国へ引き返した。「ブレイデ・ボートスハップ」号はチリ沖合でスペイン船に拿捕される。「トラウ」号は首尾よくモルッカ諸島までたどり着くが、その乗組員のほとんどがポルトガル人に殺された。

 残る2隻、旗艦「ホープ」号と「リーフデ」号は、地理中部沿岸に面したサンタ・マリア島から、いよいよ太平洋に乗り出すものの、「ホープ」号は途中で沈没したようだ。結局、「リーフデ」号だけが厳しい航海に耐え、1600年春、九州の大分の沖合にたどり着く。しかし当初110名いた乗組員のうち、生き延びたものは24~25名にすぎず、ウィリアム・アダムズの書簡によれば「私以外に立っていられる人はわずか6人」だったという。リーフデ号には大砲18門、小銃500挺、弾丸5000個など武器弾薬が大量に積み込まれていた。商売敵のオランダ人に激しい敵愾心を抱くポルトガル人たちは、この重武装を根拠として、漂着したオランダ人たちを海賊と決めつけ、極刑に処すよう家康に求めた。家康はどうしたか?

リーフデ号の漂着  三浦按針上陸記念公園(大分県臼杵市黒島)

ハウステンボスにて復元展示されているリーフデ号のレプリカ

ヘンドリック・コルネリスゾーン・フローム「スペインのガレー船を攻撃するオランダ船 1602年」アムステルダム国立美術館

アドリアン・トーマス・キー「オラニエ公ウィレム1世」アムステルダム国立美術館 

 オランダ独立運動を指導し、1581年に独立を宣言して連邦共和国の初代総督ウィレム1世となる

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