「平戸・長崎三泊四日」11 10月6日長崎(6)勝海舟③

 カッテンディーケはオランダのハーグ生まれ。海軍兵学校を出て、フリーゲート艦「マース」号で西インド諸島、東インドに勤務、1839年大尉となりフリーゲート艦「レイン」艦長として大西洋を巡航。その後、オランダ国王ウィレム3世の侍従武官となり、41歳で「ヤッパン」号で来日。滞在中、中佐に昇進。帰国後、海軍大臣をつとめ、一時外相も兼任した。前任のペルス・ライケンといい、後任のカッテンディーケといい、19世紀ヨーロッパの一流の軍人、教養人に親しく接し得たことは、後進国日本にとってかけがえのない収穫であった。

 またカッテンディーケは、ペルス・ライケンが日本語などひとつも覚えようとしなかったのに対し、日本に来る前、ホフマン博士(独学で日本語をマスターした学者)について日本語を勉強してきていた。だから彼は、ひとりで馬で遠乗りしても、日本の住民とある程度意思を通わすことができ、地名や看板もある程度理解できた。そんなカッテンディーケは、帰国後2年して『滞日日記抄』(邦訳『長崎海軍伝習所の日々』水田信利訳)を著わしたが、この書のおかげで、オランダ側から見た当時の日本海軍伝習性の横顔を知ることができる。

 カッテンディーケは、伝習生を幕府が選抜するのに、生徒の能力よりも門閥がものをいい、それで一切を決定しているらしいこと、また生徒自身の目的が立身出世にあることを見抜いている。

「私の信ずるところによれば、いわゆる海軍軍人に仕立てられるこれら生徒の大部分は、ただ江戸に帰ってから、立身出世のための足場として、この海軍教育を選んだにすぎないのだ。」

 また、日本の危機管理能力の無さ、民衆の国防意識の欠如について、鋭い指摘をしている。

「いったん緩急の場合には、祖国防衛のために、力をあわせなければならぬという義務は、他国少なくともヨーロッパでは、いや洋の東西を問わず、到る所の国々の臣民に課せられるところであるが、どうも日本人には、その義務の観念が薄いようである。その一例を挙げてみれば、私はある時、長崎の一商人に、一体この町の住民は、長崎が脅かされた時に、果たして町を防衛できるかどうかと尋ねてみたが、その商人の曰く「何のそんなことは我々の知ったことではない。それは幕府のやる事なんだ」という返事だった。

 そんな具合だから、もし艦長が1名の士官と45名の陸戦隊を率いて上陸すれば、恐らく一発の砲弾も放つことなくして、幕府の役所をはじめ海岸に面した町々は苦労なしに占領することができるであろうが、そうした場合にも、市民はあるいはその陸戦隊の上陸を、知らぬ顔で見て過ごし、幕府を窮地に陥れるかもしれない。」

 世界で初めて市民社会を築き上げたオランダとは、日本はあまりに大きく隔たっていたのだろう。また、カッテンディーケは、諸取締(海軍伝習所長)の木村図書頭(永井尚志の後任)と艦長役の勝麟太郎の人物比較もしている。

「大目付役は、どうもオランダ人には目の上の瘤であった。おまけに海軍伝習所長は、オランダ語を一語も解しなかった。それに引き替え艦長役の勝氏は、オランダ語をよく理解し、性質も至って穏やかで、明朗で親切でもあったから、皆同氏に非常な信頼を寄せていた。それ故、どのような難問題でも、彼が中に入ってくれればオランダ人も納得した。しかし私をして言わしめれば、彼は万事すこぶる怜悧であって、どんな具合にあしらえば、我々を最も満足させうるかを直ぐに見抜いてしまったのである。しなわち我々のお人好しを煽て上げるという方法を発見したのである。」

 目付の木村図書はまじめな男で、伝習生の道徳的な面にこだわり、不行跡を取り締まろうとして夜間外出を禁じる。しかし、伝習生はもちろん、オランダ人教師だって夜は遊びたがる。丸山遊郭は賑やかでおもしろいにきまっている。勝に言わせれば、夜遊びなんかでガタガタいいなさんな、というわけだ。

「長崎丸山遊郭」

 元禄5年(1692)の記録では、遊女屋74軒、遊女1,443人。この丸山遊廓の遊女は「出島」のオランダ屋敷や「唐人屋敷」への出入りが許されたため、丸山遊郭はエキゾチックな雰囲気を有していた。

カッテンディーケ

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