「平戸・長崎三泊四日」10 10月6日長崎(5)勝海舟②

 オランダ人教官のトップはペルス・ライケン大尉。2年後にカッテンディーケと交代して帰国するが、オランダ本国では、海軍中将にまで進み、外交顧問兼海軍大臣をつとめた人物で、オランダでも第一級の人物であった。こういう人物が、日本海軍の創設期に直接指導に当たってくれたことは日本にとって幸せであった。

 伝習所の生徒として募集されたのは、若くて学問ができ、造船や操船に心得のある者。第一期生には、幕臣だけでなく、佐賀藩(47人)、福岡藩(28人)、薩摩藩(16人)、長州藩(15人)など諸藩の藩士たちが集まった。幕臣と諸藩の藩士が同じ場所で生活し教育を受けるというのは、身分制度の上では画期的なことだった。伝習は、午前中は8時から正午まで、午後は1時から4時まで、日曜以外は毎日行われた。課目は航海、大砲、造船、算術、地理、蘭語など多岐にわたり、オランダ教師の言葉を通訳がいちいち訳しながらの講義だった。生徒たちは後に近代日本を突き動かす逸材が揃っていたが、その中で勝麟太郎はどのように見られていたか。

「勝麟太郎は明敏なる人故、覚えることも早くて皆からも立てられ、勝麟さん勝麟さんと呼ばれ、ペルス・ライケンも、勝さん勝さんと云っていた。」(赤松大三郎『赤松則良半生談』)

 幕府は、長崎伝習所の一期生が2年の伝習を一通り終えたところで江戸に呼び戻し、江戸の築地の講武所に海軍士官の養成機関「軍艦操練所」を作ることを考える。ペルス・ライケンは「生徒の学習の進歩は認めるが、まだ課程を修了したわけではない。せっかくここまで精進してきたのだから、もう暫く続けてはどうか」と止めたが、永井玄蕃頭は、安政4年(1857年)3月4日、観光丸に105名を乗せて長崎港を出港する。幕府が江戸築地に新しく軍艦操練所を作り、海軍教育の充実を急いだ背景には、江戸との距離が離れている長崎では通信や人員の移動に時間や費用がかかるといった事情だけでなく、安政3年(1856年)9月の「アロー号事件」のニュースが入ったからである。広東で清国船アロー号の掲げていたイギリス国旗を清国官憲が引き下ろした事件をきっかけに、貿易拡大を望むイギリスがフランスと連合して清国と対立し、広東の居留地を焼き払った。それが、いたく幕閣を刺激し、江戸湾の海防準備を急がせたのだ。

 勝麟太郎にも帰府する命令が下ったが、出立の一日前、永井玄蕃からこう言われる。

「教師から手紙が来て、いうには、今年は新教師団が本国から来る予定だ。貴国も、新生徒を入れ、旧生徒と交替すると聞く。双方とも新しくなっては、都合が悪いのではないか。わが教えた生徒のうち、一人を残し、万事を周旋させたらどうであろう。コットル船もまだ進水していないし、製鉄所の機械もオランダから届いていない。ひとつお考えをいただきたい、とこういってきている。まことにもっともと思う。今、江戸に帰るというに、一人残れというのは、情において忍びないが、どうであろう」

 勝は何と答えたか?

「教師のいうこと、もっともです。教師がまだ帰らずに残っているのに、弟子がみな出てゆくというのは、信義に合わないと思う。私は、断然この地に止まり、教師の帰国を見送り、新しく来た教師のために微力をつくし、新生徒の方向を指示することにします」

 ペルス・ライケンや佐久間象山の勝宛の手紙からすると、当時勝はオランダ留学を熱望していたようだが、長崎滞在の延長は、オランダ留学に匹敵するほどの勉学効果を勝に与えることになる。それは、教師団の交替によって、すぐれた第一級のオランダ人教師が現れたからである。安政4年(1857年)8月5日、かねてオランダに注文して建造中であった二隻の軍艦のうちの一隻、「ヤッパン号」(咸臨丸)が、長崎に到着。その船には、新任教師団37名が乗り組んでいた。彼らの教頭がヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケだった。

「観光丸」

 長崎海軍伝習所練習艦としてオランダより江戸幕府へ贈呈された軍艦。 江戸幕府初の木造外車式蒸気船

復元された「観光丸」

 現在は長崎港でクルーズ船として活躍中

ペルス・ライケン

「アロー号事件」 アロー号を拿捕する清国兵

  これが「アロー号戦争」=「第二次アヘン戦争」の始まり

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