「平戸・長崎三泊四日」5 10月5日平戸(3)平戸オランダ商館②

 「タイオワン事件」を契機として平戸オランダ商館の活動は、それまでの戦略拠点から貿易活動の拠点へと、その性格を大きく転換することになる。そして5年ぶりに貿易が再開された1633年以降、平戸オランダ商館の貿易額は飛躍的に増大する。このことは、同時期に勧められた幕府の対外政策の転換、いわゆる鎖国政策の進展と密接な関係があった。

 江戸時代はじめの日本の対外交易は、ポルトガル船、オランダ船、そして日本の朱印船によって活発な交易がおこなわれていた。ところが鎖国政策によってまず朱印船が締め出されていく。さらに「島原の乱」を契機としてポルトガル船が日本から追放されたことにより、日本へ来航する外国船は中国戦とオランダ船のみとなった。つまり、ライバルたちが次々に排除されていくことにより、相対的にオランダのシェアが拡大したのである。

 増大する貿易に対応するために、平戸オランダ商館は敷地や施設の拡張を行う。特に1639年に築造された倉庫は長さ約46メートル、幅約13メートル、屋根裏を含め三階建の洋風の概観を持つ石造倉庫(日本で最初の本格的西洋建築物)で、銀約117貫もの巨費を投じて建てられた。これは、貿易の利益がアジアで最大となった平戸オランダ商館のますますの経済活動を、オランダ東インド会社が期待した表れだろう。

「平戸ではとくに制約もなかったので、月日を重ねるごとに建物が増え、二階建てや三階建ての建物の内部は豪華に飾られ、倉庫は切石で造られ、周囲に兵をめぐらせ、その華美な姿は非常に贅沢なものであった。その偉容に道行く人々は目をみはった」(『長崎拾芥』)

 ところがこの倉庫、なんと建造された翌年(1640年)、幕府によって破壊を命令される。一体何があったのか?「島原の乱」だ。1637年,肥前(長崎県)島原・肥後(熊本県)天草地方でキリシタンを中心とする農民一揆が起きる(〜1638年)。これらの地はキリシタン大名有馬晴信・小西行長の旧領。藩主松倉重政(島原)・寺沢広高(天草)らは禁教・重税・厳罰で臨んでいた。それに対し、1637年10月,有馬・小西の牢人(主家を去って俸禄を失った武士)の指導のもとに,天草四郎時貞を首領に3万8000人の農民が島原の原城址に拠り挙兵。幕府は板倉重昌以下西国大名を動員したが,重昌が戦死したため,老中松平信綱が出馬し,兵糧攻めで翌年2月落城させ参加者を皆殺しにした。幕府の動員兵力12万,戦費約40万両。乱後禁教政策はいっそう強化される。

 この「島原の乱」は、幕府の目を平戸オランダ商館にも向けさせた。1640年11月9日、将軍徳川家光の命を受けた大目付井上政重が視察に訪れ、倉庫にキリスト教に関係するものがないか徹底的に調査。そして、商館視察後、突然1639年築造の倉庫の破壊命令が商館長フランソワ・カロンに言い渡される。何が理由か?なんと倉庫に記されていた「1639」の年号。西暦年号、すなわちキリスト生誕を紀元とする年号が問題とされたのだ。もちろん、破壊命令の真の理由は、要塞と見紛うような、当時の日本人にとっては異様ともいえる外観こそが幕府にとって看過できないものだったことだろうが。カロンがこの命令に異議を唱えた場合、カロンをその場で殺害し、平戸オランダ商館は熊本・島原・柳河諸藩により攻撃が加えられることとなっていた。

 では、この時カロンはどう反応したのか?若い頃から平戸オランダ商館に勤務し、日本語と日本文化に堪能な商館長カロンは、将軍の命令は絶対であることを理解しており、一言の反論もせずに恭しい態度ですべて命令に服すると返答した(とにかく莫大な利益を得られる日本との交易関係を断ちたくなかったのだろう)。このカロンの態度に感銘を受けた井上は、その後、厳しい立場に置かれたオランダ商館に対して好意を持ち、便宜を図るなどする。そして、この翌年の1641年、平戸オランダ商館は長崎出島に移転するよう幕府から命じられる。移転後、バタヴィアの東インド総督が幕府へあてた書簡には「平戸にいたときのような境遇に戻してほしい」という一文がある。日本人との接触をはじめとする、様々な厳しい制約を加えられての出島での生活が、平戸での比較的自由な生活を懐かしく思わせたのだろう。ポルトガルの日本追放に際しては、何かと策動したオランダ商館だったが、最終的には、自らが「国立の監獄」と呼んでいた出島に押し込められることになった。

「平戸オランダ商館」(1639年築造倉庫)復元

「平戸オランダ商館」(1639年築造倉庫)復元

中央上部に、問題とされた「1639」の年号が見える

平戸のオランダ商館(1669年の版画)

「天草四郎之像」天草四郎公園 上天草市

愛久沢勇悟「天草四郎」

ペトロ・カスイ岐部神父を訊問する大目付 井上筑後守政重(ペトロ・カスイ・岐部記念公園)  ペトロ・カスイ岐部は1639年7月4日江戸で殉教

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