「平戸・長崎三泊四日」6 10月6日長崎(1)日本二十六聖人記念館①

 サン・フェリペ号事件が引き金となって、秀吉は京都奉行の石田三成にフランシスコ会士とキリシタンを捕縛し処刑するように命じる。24人が捕らえられ、京都や大坂、堺の町を引き回され、裸足のキリシタンたちは長崎へと送られた。行列の先頭には、秀吉の宣告文が掲げられていた。

「これらの者マニラの島のルソン地方より使節の資格を帯びて来り、都の市中に留まることを許したるところ、余が数年前に厳しく禁止せしキリスト教徒の教えを説きたるにより、彼らの教えを信奉せし日本人と共に死刑に処することを命ずるものなり。しかしてこれら24名の者は長崎の市において磔の刑に処せられるべし」

 24人を処刑すると決めた秀吉は、見せしめのために耳と鼻を削ぎ、町々を引き回せと命じる。1597年1月3日、牢から出された24人は京都の上京一条の辻で左耳たぶのみを切られた。サン・フェリペ号船長ランデチョからの懇願もあって、石田三成が左耳たぶを切るように申し渡していたからだ。長崎に向かう道中で、24人と道中を共にしていた2人が安芸の役人から問われキリシタンだと答えたため捕縛され一行に加えられた。

 秀吉が処刑地を長崎に決めたのはなぜか。禁教令にもかかわらず、長崎はキリシタンの町として栄えていた。ポルトガル貿易のため、秀吉は長崎に宣教師の居住を認め、住民の信仰の自由を黙認していたからだ。

こうした長崎に住むキリシタンへの警告のために処刑地を長崎にしたようだ。また、約1か月もかけてキリシタンたちを歩かせたのも、秀吉のキリスト教に対する考えを人々へ知らせるためだった。

 朝鮮出兵中の長崎奉行寺沢志摩守にかわり、長崎護送と刑の執行をつとめることになったのは、弟の寺沢半三郎。唐津で一行を迎えた半三郎は悩む。一行の中に旧友パウロ三木や3人の子ども(トマス小崎【14歳】、アントニオ【13歳】、ルドビコ茨木【12歳】)がいたからだ。ルイス・フロイス『日本二十六聖人殉教記』結城了悟・訳)にこんな記述がある。

「この二十六人の下僕らの中に・・・十二歳の非常に朗らかな少年がいて、半三郎は彼に、『そなたの命は私の手中にある。もし私に仕える気があれば、そなたを助けよう』と言った。少年は答えて『自分の命はフライ・ペトロ(註:殉教者の1人)の決定に従います』と言った。

フライ・ペトロはそれを聞いて『彼がそなたの生命を救うとして、もしキリシタンとして生きることを許されるならば従ってもよい、と言いなさい』と告げた。しかし半三郎は『そうではない。キリシタンの教えを捨てるならばよい』と言ったので、子供は『そのような条件であるならば、生命を望みません。つかのまの生命と永遠の生命を交換するのは意味のないことです』と答えた。」

 また、トマス小崎は1月17日の母宛の手紙でこう記している。

「神の御助けによって、この数行をしたためます。長崎で処刑されるためそこへ向かう神父と私達は、先頭に掲げた宣告文の通り、二十四人です。私と父上ミゲルのことについては御安心くださいますように。天国で近いうちにお会いできると思います。神父様達がいなくとも、もし臨終の時、犯した罪の深い痛悔があれば、またもし主イエス・キリストから受けた数多くの御恵みを考えそれを認めれば救われます。現世ははかないものですから、パライソの永遠の幸せを失わぬように努めて下さいますように。人々からのどのような事に対しても忍耐し、大きな愛徳をもつようにして下さい。私の弟達マンショとフェリペを未信者の手に渡さぬように御尽力ください。私は我が主に母上達のためにお祈り致します。私の知人の皆様に宜しくお伝えください。重ねて申し上げます。貴女が犯した罪について深い痛悔をもつようにして下さい。これだけが大切なことです。アダムは神に背いて罪を犯しましたが、痛悔と償いによって救われました。

        安芸国三原の城より  十二番目の月の二日(1597年1月19日) 」

 とても14歳の少年の文章とは思えない。

「二十六聖人記念碑」

  背の低い3人の少年は、左からトマス小崎、アントニオ、ルドビコ茨木

「二十六聖人殉教図」大浦天主堂

「ルドビコ茨木像」浦上天主堂

「聖トマス小崎像」三原城跡 広島県三原市

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