「平戸・長崎三泊四日」4 10月5日平戸(2)平戸オランダ商館①
平戸にポルトガル船が入港したのは、1550年から1564年まで。そして次にヨーロッパからの船が平戸に入港するのは1609年。ポルトガル船でもスペイン船でもなく、二隻のオランダ船。なぜ、ポルトガルやスペインと言ったカトリック国ではなく、プロテスタントの新興国オランダだったのか?話は、関ヶ原の戦いを目前にひかえた1600年4月にさかのぼる。
この時、オランダ船リーフデ号が豊後臼杵(うすき)に漂着した。1598年6月、オランダは東アジアへの航路開拓を目的として、5隻の船団を編成しロッテルダムを出航させる。航海は困難を極め、マゼラン海峡を通過し太平洋を横断して日本に漂着できたのは1隻のみ。しかも、出港時120人いた乗組員のうち、漂着時の生存者はわずか24人。その中に、イギリス人航海士ウィリアム・アダムスがいた。カトリック国ポルトガル・スペインの宣教師たちは、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求。しかし、大坂城でアダムスらを引見した五大老首座の徳川家康は、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺し、彼らを江戸に招き幕臣にする。アダムスには江戸に屋敷地を与え(のちに三浦半島に250石の領地も与える)、また幕臣の馬込勘解由(かげゆ)の娘も与え、名を三浦按針と名乗らせた。
一方、松浦家では1599年、英雄的な貿易家だった隆信(道可)がなくなり、その子の鎮信(法印)の代になっていたが、気質も才略も似ていて、松浦家の貿易主義をよく踏襲した。1605年、江戸幕府より南洋渡航の朱印状を得た鎮信は、朱印船をマレー半島のパタニに派遣。パタニにはオランダ商館があり、朱印船にはリーフデ号の船長と一部の船員たち生存者を乗せる。また、同時に家康からオランダに対して通称を求める朱印状が託された。これはオランダへ送付され、1606年2月、オランダ東インド会社(1602年設立)は日本との通商を決定。そして、1609年7月1日、オランダ人使節の乗った2隻のオランダ船が平戸に入港。オランダ人使節は、駿府の徳川家康に謁見し、通商許可の朱印状を受け取る。平戸に戻った使節は、平戸にオランダ商館を開設することにし、初代商館長としてジャックス・スペックスを任命。この時から長崎出島に移転させられる1641年まで、オランダ商館は平戸で活動する。すでに幕臣であり、家康の外交顧問であったウィリアム・アダムスは、オランダ商館が活躍しやすいように尽力したようだ。
当初、日本向け商品が十分に調達できないこともあって、平戸商館の役割は、日本との取引よりもむしろ戦略拠点としての性格が重視されていた。すなわち、東南アジアでのポルトガル・スペイン勢力と対決するための拠点としての役割を期待されていた。当時オランダ船は、海上で発見したポルトガル船や中国戦を襲撃し、その物資を掠奪していた。そして略奪した物資はいったん平戸商館に陸揚げし、仕分けされたバタビア(現ジャカルタ)へと送られていた。だが、こうした行為はやがて幕府の介入を招く。1624年、オランダは台湾に拠点(要塞ゼーランディア城)を確保し、対日貿易の拡大を計り出すが、そのことが逆に別の事件を引き起こす。
1628年、台湾のタイオワン(ゼーランディア城)で起こった日本の末次平蔵所有の朱印船とオランダ商館の衝突事件「タイオワン事件」である。その頃、長崎を拠点にした日本の朱印船貿易もタイオワンにも入港し、中国商人から生糸を得ていたので、その地がオランダに占拠されたことで新たな紛争が起こったのだ。有力な朱印船貿易家で長崎代官であった末次平蔵は、配下の浜田弥兵衛に指揮させた持ち船二隻をタイオワンに入港させたところ、オランダの長官ノイツは日本船に課税した上、武器を携行しているとして乗組員を捕らえた。交渉のために長官の屋敷に赴いた浜田はいきなりオランダ人二人を殺し、ノイツに飛びかかって縛りあげて日本船に連れ帰った。オランダ側と浜田弥兵衛が交渉し、長官ノイツを釈放する代わりに互いに人質を出し合い、幕府の裁定を仰ぐことになった。ところが幕府では折りから将軍秀忠が亡くなったこともあって、裁定が遅れ、その後5年にわたって幕府とオランダは絶交状態が続いた。ようやく強硬派であった末次平蔵が死去し、オランダ側もバタビアの総督スペックスがノイツの責任を認めて損害を賠償する措置をとったので1632年に事件は解決し、貿易が再開された。
現在の平戸港
「ウィリアム・アダムス像」歴史の道 平戸
「ジャック・スペックス像」歴史の道 平戸
「ジャック・スペックス」アムステルダム国立美術館
ゼーランディア城
1621年平戸港
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