「長崎とキリスト教」8 「小ローマ長崎」③天正遣欧使節

 大村純忠が、周辺の敵からの攻撃をかわすために長崎6町と茂木をイエズス会に寄進(1580年)した頃、日本イエズス会は本部を長崎に置いた。また、1584年には同じくキリシタン大名の有馬晴信も自分の領地の浦上を日本イエズス会に寄進。しかし、その3年後の1587年、豊臣秀吉が伴天連追放令を発布。さらに秀吉は、イエズス会領となっていた長崎・茂木・浦上を没収して直轄地とし、教会も壊した。しかし、南蛮貿易そのものは従来どおり奨励して保護する方針だったので、キリスト教を完全に取り締まるのは不徹底だった。長崎の町では教会が再建され、「長崎は日本の良魔(ローマ)なり」(『伴天連記』)と記されるほどキリシタンの町として発展する。徳川家康が禁教令を発布した1614年には、人口25,000人のほとんどがキリシタンであったといわれる。しかし、この禁教令によって、11月3日からわずか2週間ぐらいのあいだに、教会のほとんどが壊され、長崎の町から姿を消し、小ローマのような長崎の景色は一変した。

 ところで、1582年、長崎の港からイエズス会巡察師ヴァリニャーノとともに4人の少年がローマへ向けて旅立った。「天正遣欧使節」である。九州のキリシタン大名である大村純忠、有馬晴信、大友宗麟の名代として、正使に伊東マンショと千々石ミゲル、副使に中浦ジュリアンと原マルチノが派遣されたが、このうち3人は大村氏ゆかりである。派遣の目的は、少年たちに直接、偉大なヨーロッパを見せて語り部にすることで、日本人のヨーロッパに対する認識を高め、また、イエズス会が育てた少年たちをヨーロッパに紹介することで、日本での布教活動の成果をアピールし、ローマ教皇やポルトガル国王の援助を得ることにあった。ゴアに留まることになったヴァリニャーノにかわり、その後の天正遣欧使節は宣教師メスキータが引率した。

 4人の少年は13歳前後の若さで、ザビエルが辿った危険な海路に挑み、2年5カ月にわたる過酷な旅の末、1584年8月10日、ポルトガルのリスボンに上陸する。そしてマドリードで、当時スペイン王でありながらポルトガル王も兼ねて(1580年~)「世界の帝王」「南蛮の大王」と呼ばれていたフェリペ2世に完成したばかりのエル・エスコリアル宮殿で謁見。その後、地中海を渡ってイタリアに上陸し、華やかな歓迎を受けながら、最大の目的地ローマへ向かう。

 1585年3月23日、中浦ジュリアン(高熱のため出席できず)以外の3人は、和服で正装し、黄金のふさのついた帽子をかぶって飾り布を巻き、馬に乗って群集のなかを行進した。教皇グレゴリウス13世(ユリウス暦を廃し、グレゴリオ暦とよばれる新暦を採用したことで有名)との謁見は、ヴァチカン宮殿の「帝王の間」で行われ、「日本」は世界に華麗なデビューを果たした。この18日後の4月10日に教皇は亡くなり、シスト5世が新教皇に即位。シスト5世も、即位2日後に使節と会い、自分の戴冠式で栄誉ある役を与え、行列に参加させた。さらに教皇から叙勲され、ローマ市民からは市民権証明書を授与され、ローマの貴族に列せられた。そして、教皇から、日本布教のための資金や大名への返書、贈り物、旅費を与えられるなど、輝かしい功績をもって帰ることになる。

 「東方の4人の貴公子」たちの出現は、ヨーロッパに一大センセーションを起こした。彼らが訪れた1585年中に、使節に関する書物や小冊子は48種、1593年までに78種にもなり、イタリア、ドイツ、フランス、ポーランド、ベルギー、スペイン、ポルトガルなどにおよぶ。侍の子として教えを受けた礼儀作法やキリシタンとしての誇りを持つ彼らの姿は神秘的で、ヨーロッパの人々にとって、それまで出会ったことのない「アイドル的存在」だったようだ。

 使節は、1586年4月、リスボンを出航し、ゴアで巡察師ヴァリニャーノと再会して、1590年7月帰国。8か月後、4人はヴァリニャーノとともに秀吉に謁見し、その後、天草のノビシアード(修練院)でイエズス会に入り、日本でのキリスト教布教に命を捧げる決意をする。

「天正遣欧少年使節顕彰の像」大村市森園公園

1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画   京都大学図書館

 タイトルには「日本島からのニュース」と書かれている

ソフォニスバ・アングイッソラ「フェリペ2世」1573年 プラド美術館

エル・エスコリアル修道院

 少年使節は、この中にある宮殿でフェリペ2世に謁見

天正遣欧使節、教皇謁見の図 グレゴリウス13世の前にひれふす3人の少年使節

天正遣欧使節ヨーロッパ巡路

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