「長崎とキリスト教」9 「小ローマ長崎」④秀吉とキリシタン(1)「バテレン追放令」

 天正遣欧使節が帰国したのは1590年7月。キリスト教に好意的だった織田信長は、使節の長崎出発(1582年2月)直後に「本能寺の変」(1582年6月)で死亡。使節を派遣したキリシタン大名のうち大友宗麟、大村純忠も、使節が帰国途中の1587年6月に死去。そして使節がマカオにいた1587年7月、秀吉は「バテレン追放令」を出す。この3年後に帰国した少年使節たち(と言っても帰国時は21歳前後)はどのように扱われたのか?

 まずインド副王使節に指名されていたヴァリニャーノはマカオから、中国船に託して、秀吉側近の浅野長政に日本入国の了解を取る。そして帰国して8か月後の1591年3月3日、ヴァリニャーノは4人の少年使節とともに京都の聚楽第で豊臣秀吉に謁見。この様子をルイス・フロイスが記録している。例えば秀吉と伊東マンショのやりとり。秀吉が「余に仕える気持ちがあれば十分な俸禄を与えるぞ。」 と言うと、伊東マンショは、「私はヴァリニャーノ神父にわが子のように育てられました。師のもとを去っては恩を忘れたことになります。」と答える。これに対して秀吉は、「なるほど、その通りだ。」 と返す。またアルバ(ハープ)、クラヴォ(鍵盤楽器、ラウテ(リュート)という楽器を携えていた少年使節たちは、その演奏を所望され、アンコールを受けて三度も演奏した。秀吉は大いに喜び「汝らが日本人であることをうれしく思うぞ」と終始ご機嫌であったと記録されている。

 4人はその後、天草のノビシアード(修練院)でイエズス会に入り、日本でのキリスト教布教に命を捧げる決意をする。「バテレン追放令」下でなぜこのようなことができたのか。1587年7月の秀吉の「バテレン追放令」とはどのようなものだったのか?ルイス・フロイスの『日本史』によればこうだ。

 まず1項で「キリシタン国より悪魔の教えを説くために伴天連たちが渡来した」とし、2項で「これらの者は日本の諸国諸領に来り、その宗派の信徒を作り、神や仏の寺院を破壊するが、かかることは日本においていまだかつて見聞せざるところである。・・・民衆が、かかる寺社の破壊など、騒擾をなすは、これ処罰に値する。」とする。そして3項で「予は伴天連が日本に留まってはならぬと定める。よって、今日より二十日以内に、彼らは身辺を処理し、自国に帰るべきである。」と言う。ただし「ポルトガル船が商取引に来るのは、それとは大いに異なることゆえ、なんらの妨げなく、それを許される。」(4項)「今後、商人に限らず、インドから来るいかなる人々も、神と仏の教えを妨害せぬ限り、自由に日本に来ることができる。」(5項)。

 しかし、宣教師たちはこの後も日本に留まっていた。この時の日本には、司祭と修道士をあわせて136人のイエズス会士がいた。司祭49人はすべてヨーロッパ人だが、修道士87人のうち69人は日本人だった。彼らは国外退去のために平戸に集まったが、やがてキリシタン大名に引き取られて各地で活動を再開している。「バテレン追放令」もキリスト教に改宗する領主は少なくなかった。どうも、秀吉の「バテレン追放令」は、その内容は強烈だったが、徹底的取締りを意図した法令ではなく、影響力を増大させる宣教師たちへの警告的意味合いで発布されたものだったようだ。

 確かにイエズス会に寄進されていた長崎・茂木・浦上は、このとき秀吉によって没収され直轄領とされた。しかし「長崎の港は関白殿に帰したといっても、キリスト教会に関してはそこに何らの変化も生じなかった」(1592年 ヴァリニャーノの報告)。秀吉が狙ったのは貿易の独占。追放令発布の翌年(1588年)、渡来したポルトガル船に対して、秀吉の奉行が優先的に買い付けることを命じたが、あまりの安い買い上げ価格に驚いたポルトガル商人は、翌年には商船を長崎に送らなかった。マカオにいたヴァリニャーノが秀吉に、こう通告したからだ。教会に迫害を加え、生糸を独占したのでは今年は船を日本に送らない、ポルトガル人との貿易を望むならイエズス会士の日本滞在を許し、ポルトガル人には自由な貿易を許さなければならない、と。これに驚いた秀吉は貿易にイエズス会が仲介することを認めざるを得なくなった。

ウルバノ・モンテ「天正遣欧使節の4人」

ヴァリニャーノ

秀吉のバテレン追放令 (吉利支丹伴天連追放令)

狩野光信「豊臣秀吉」高台寺

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