「長崎とキリスト教」7 「小ローマ長崎」②信長とイエズス会
なんと純忠は、イエズス会巡察師ヴァリニャーノに、長崎と茂木の寄進を申し入れたのだ(1579年)。ヴァリニャーノは喜んで受け入れたかというとそうではない。イエズス会では知行地を受けることは禁止されていた。なにより宣教師は日本に領土的野心を持っているという疑いが一層深まることを懸念していた。ヴァリニャーノは1年近く検討し、1580年ついにその申し出を受けることにした。ただし、寄進と言っても実際にイエズス会に与えられたのは、長崎の支配権と徴税権のみで、司法権は大村の役人が持ち、その区域は長崎の6町と、茂木の港と田畑に限られていた。また、長崎に入港する船の貿易税は純忠が徴収したが、碇泊料はイエズス会が徴収した。さらに1584年には「沖田畷(おきたなわて)の戦い」で龍造寺隆信に勝利した有馬晴信が、勝利に感謝して領地の浦上をイエズス会に寄進した。
このようなことが可能だったのは織田信長が権力を獲得しつつある当時の日本の状況ともかかわっている。純忠が洗礼を受けた1563年は信長が今川義元を破った桶狭間の戦い(1560年)の3年後。長崎が開港し、ポルトガル船が初めて長崎に入港した1571年には信長は延暦寺を焼き討ちにした。信長は、1573年、室町幕府を滅亡させ、1575年、長篠の戦に勝利し、1576年、安土城を築き移る。1579年に来日したイエズス会巡察師ヴァリニャーノに大村純忠は長崎寄進を申し出るが、そのヴァリニャーノは1580年、京都で信長に謁見し、学校建設の許可を受け、安土にセミナリヨを設置する。またこの年、信長は11年続いた石山本願寺(一向宗の総本山)との戦い(石山合戦)を終結させた。
信長はイエズス会に対して総じて好意的だったが、、言いなりになっていたわけではない。あくまで敵対する仏教勢力の牽制に役立つと考えたから保護したのであり、逆に役に立たないと判断したときは切り捨てられる可能性があった。例えば、1578年、摂津国の大名荒木村重が謀叛したときのこと。信長は宣教師オルガンティーノを呼んで、村木の与力(大名や有力武士に従属する下級武士)であったキリシタン大名高山右近(大村純忠と同じく1563年に受洗)を投降させるよう命じる。右近の調略がうまくいけばどこに教会を建ててもよいが、失敗すれば宣教師全員を磔にし、キリシタンを皆殺しにすると言ったという。また石山合戦では、仏教勢力に敵愾心を燃やすキリシタン兵士を多数動員したともある。新たな宗教勢力として地歩を確立しつつあったイエズス会を、信長は硬軟両様の手管を使って籠絡したと言っていい。
信長はすでに1569年、正親町(おおぎまち)天皇が京都からのバテレン追放の綸旨を出した際、ルイス・フロイス(1563年来日したポルトガル人のイエズス会宣教師。戦国時代研究の貴重な資料となる『日本史』を記した)に、「万事は予の権力のもとにある、望みのところに滞在せよ」と言っている。すでにこのとき信長は、フロイスやオルガンティーノ、ヴァリニャーノたちから、ポルトガル国王が地球の半分を支配する権力と権威を持っていることを聞いて知っていた。イエズス会はポルトガル国王の庇護を受け、その配下にあることも知っていた。それでも信長はまるでイエズス会もポルトガルも恐れない。信長は一体どのような世界観を有していたのだろうか?
1569年にイエズス会の京都での活動を信長が容認したことについて、家臣の松永久秀が、バテレンの呪うべき教えがおこなわれるところは常に国も市も直ちに崩壊して滅亡するだろう、と言ったことに対して、信長はこう答えた。たった一人の異国の者が日本でどんな害悪をなすことができるというのか、小心者にはあきれる、と。また、1587年にイエズス会士が同会総会長に宛てた書簡には、こんな一節が紹介されている。あるとき秀吉が信長に、イエズス会士は日本を征服し支配する目的を持っていると話したところ、信長は、「あのような遠いところから、その目的を達成するに十分なだけの兵士がくるのは不可能だ」と語ったという。ポルトガルやイエズス会は、明国もねらっていたが、信長は、その明国を取るという考えを抱いていた。1582年、フロイスがイエズス会総会長に宛てた書簡の一節にこうある。
「信長は・・・、毛利を平定し、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分かち与える考えであった」
『南蛮屏風』部分 神戸市立博物館 黒人が描かれている
信長は、ヴァリニャーノが連れてきた黒人を気に入り、特に家臣の列に加えている
『南蛮屏風』部分 神戸市立博物館 16世紀末から17世紀初期
信長死後に宣教師によって描かれたとされる肖像画 山形県天童市三宝寺
ルイス・フロイス像 横瀬浦公園 西海市
「ルイス・フロイス記念碑」 日本二十六聖人記念館の隣接する長崎市・西坂公園内
大阪府高槻市の城跡公園にある高山右近のブロンズ像
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