「カトリック宗教改革」4 イグナティウス・デ・ロヨラ②「イエズス会」誕生

 バルセロナに帰り着いたロヨラは、エルサレムにとどまれなかったことが神の意志だったとすれば、この地で人びとを霊的に助けなければならないと考えるようになった。しかしそのためには自分には勉学が不足していることに気づく。彼はラテン語を自由に読み書き話すことができなかった。1年半ほどスペインのアルカラ大学で学んだ後、ロヨラは、パリに行って本格的に勉学し、そこで霊性を持った同志を募り、霊魂救済のための団体を作ろうと決心する。しかし、当時は神聖ローマ皇帝(兼スペイン王)とフランス王によるイタリア戦争の最中。まわりは、スペイン人がパリに行くのは危険極まりなく、スペイン人は火あぶりにされる、とまで言ってパリ行きに反対したが、ロヨラは「どんな恐れの素振りも示さず」旅立った。 

 1528年2月頃、パリに到着。すでに37歳になっていた。パリ大学に入学し、7年学んだが、多くの人々がイグナチオの霊的指導を求めてやってきた。その中で、6人(フランス出身のピエール・ファーヴル、バスク出身のフランシスコ・ザビエルら)の重要な同志を得て、1534年8月15日、イグナチオと6人の仲間はモンマルトルの丘に登り、世に言う「モンマルトルの誓い」(「今後、7人はおなじグループとして活動し、エルサレムでの宣教と病院での奉仕を目標とする。あるいは教皇の望むところならどこでも赴く」)を立てるが、これがイエズス会の始まりである。

 1537年、7人は教皇から直接修道会としての許可を受けようとローマに向かった。時の教皇パウルス3世は一同の知的レベルと志の高さを認め、司祭叙階と聖地巡礼の許可を与えた。6月24日、ヴェネツィアに赴いた一行はアルベの司教から司祭叙階を受けた。当時、イタリア半島では神聖ローマ皇帝や教皇、オスマン帝国を巻き込んだ戦いが行われていたため、聖地への渡航をあきらめ、当面はイタリア国内で説教と奉仕活動に専念する方針をたてた。

1538年10月、再びローマに赴いたロヨラは、教皇から修道会の「会憲」(修道会のあり方を基本的に定める法)の認可を得ることで正式な許可を得ようとした。会憲の第一条にはこう書かれている。

「イエズス会の名をもって呼ばれることを望む私たちの会において、十字架の旗の下で神のために戦い、地上の代理者であるローマ教皇の下で、ただ主とその花嫁である教会のみに奉仕しようと望む者は、生涯の誓約として、貞潔・清貧・従順の盛式誓願(注:誓願には単式と盛式の区別があり、盛式誓願はより厳格な誓願)を宣立した後は、次に述べる会の一員であることを心にとどめていなければならない。すなわち、この会は信仰を擁護し、宣べ伝え、キリスト教的生活と教理における人々の完成に献身することを主要な目的として創立された。そのため、説教、講義、また神の言葉を告げるその他の務め、霊操の指導、青少年や教育のない人々への教理教育に従事し、また告白その他の秘蹟の授与などを通してキリスト教徒に特に霊的慰めをもたらすことを目指している。・・・」

 会憲を審査した枢機卿団は好意的な評価を下し、パウルス3世は1540年9月27日の回勅『レジミニ・ミリタンティス』で会を正式に許可。その際の唯一の条件は会員数が60名を越えないことということであった。しかし、この制限も3年後の1543年3月14日に出された回勅『イニュンクトゥム・ノビス』で撤廃された。

 ところで、「イエズス会」という名は、ローマに向かうロヨラがその郊外まで来たときの出来事に由来する。路傍にある「ラ・ストルタ」という小聖堂に入り祈りを献げると、肩に十字架を担われたキリストがロヨラの前に顕れ、神の声で「汝(キリスト)はこの者(ロヨラ)を僕とすることを我は望む」との声が聞こえた。するとイエスはロヨラに「汝が我らに仕えることを我は望む」と言った。そこでロヨラは父なる神とイエス・キリストが自分と同志たちを「イエスの友」として選ばれたのだと悟り、そこから修道会の名を「イエスの友の会(la Compañía de jesús)」と名づけた、とされる。

「パウルス3世の前のイグナティウス・デ・ロヨラ」ジェズ教会 ローマ

ドメニキーノ「聖イグナチオ・デ・ロヨラのキリストと父なる神の幻視」ロサンゼルス・カウンティ美術館

イエズス会の紋章

第266代ローマ教皇フランシスコ  史上初のイエズス会出身のローマ教皇

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